橙色の光が、ぼんやりと部屋を照らしている。私は読了した本を書棚にしまうために、ゆっくりと立ち上がった。そして、ふと目に入ったのだ。 「クロエへのプレゼントよ」 そう言って母が譲ってくれたオルゴール。 私は、僅かに埃を被ったオルゴールを取り出した。……ふう。短い吐息を漏らしゼンマイを巻く。 澄み渡るオルゴールの音色と共に、バレリーナがくるくる回り始めた。 「ああ、お母様」
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150個の音で構成される短い曲だけれど、とても優しく温かい音色を奏でる。 バレリーナは楽しそうにくるくると舞い、私の心を踊らせる。 昔お母様が褒めて下さったバレエ。トウシューズと一緒に貰ったこのオルゴールはわたしの大切な宝物。 お母様が亡くなってから、お母様のことを思い出すのが辛くて暫く閉じられていたオルゴール。 悲しくなると思って開いたそれは、お母様との大切な思い出を蘇らせた。
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母の鏡台がまだ大きく見えた昔の日、その上にきれいな模様が象嵌された木箱を見つけて、両手を伸ばした。 横で髪をとかしていた母はブラシを置くと、その手を私の手の甲に優しく重ね、箱を開くのを手伝ってくれる。 箱の蓋の裏側は五面の鏡になっており、驚きまじりの笑顔を幻想的に写し出した。もうそれだけで満足な私だったけど、母は箱の中から人形を取り出し、真ん中の台に乗せる。 本当の魔法が始まるのはこれからだった。
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音が私の周りを囲んでいった。 黄金に響く渚は神経を落ち着かせ、夢の奥底へと私の意識を誘った。 光り輝く音符は笑顔に弾む。 150個の音が溢れ出ては、虹色に発光した。 互いに手を取り合う音もいる。 双子や三つ子の音もいる。 母の思いでは私の心に大きな位置を占めていたが、より美しく、より感動的に私の心を占めていった。 自然と涙が溢れる。
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オルゴールの音色は昔から何も変わらない。それでも胸が揺さぶられるほどに苦しくて懐かしいのは、きっと私が変わったからだ。 音にあわせて回っていたバレリーナが、ゆっくりとその速度を落としていく。ゼンマイが切れ、曲の途中の一音が最後となってぽろんと響き、余韻を残す。 踊ることを止めたバレリーナの姿が、寂しく鏡に反射する。 母が亡くなって以来、私はバレエを辞めた。 もう、踊れなくなってしまったのだ。
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髪を縛る度、シューズを履く度、お母様の優しく見守る目を思い出した。 軽やかで伸びのある音楽を聞く度に、お母様の踊りを思い出した。 母はバレリーナだった。 決して大きなバレエ団に所属していた訳ではなかったけれど、生き生きとそして繊細に表現をする母の踊りに沢山の人が惹きこまれていた。 教えられた踊りをただ踊る私とは違う。 私は怖かったのかもしれない、踊りの中で母を思い出すことも、比べられることも。
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「お母様の踊りを思い出す」 そう言ってくれた人たちも、最後には決まって言うのだ。 『でもお母様とは何か違うけれど』 体の芯が硬直していった。思うように体を動かせなくなった。お母様の踊りを思い出せなくなって、そんなことで踊れなくなる自分も怖くて。貰ったトゥシューズを放り投げた。 もう一度ゼンマイを巻く。 懐かしい音色 オルゴールの魔法が私の体を解きほぐす。 涙を拭って立ち上がった。
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そのとき、「バレエなんて…」という気持ちの中に「もう一度踊ってみる」という気持ちがあったのかもしれない。だけどその気持ちに素直に気づけなかった。認めたくなかった。 「お母さん…お母さん…」 お母さんのことを思い出す。しぜんと涙がぽたぽたと頬を伝って流れ落ちる。その涙が手に落ちた瞬間。ふとお母さんのことを思い出した。しぜんとシューズを履いてレオタードを着る。
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そして、もう一度オルゴールのネジを巻いた。 150の音が奏でる音楽と共に、母の思い出と共に私は踊り始めた。 オルゴールを舞台に踊るお人形のようにクルクルクルクル… 「そうよ、クロエ、素晴らしいわ。 あなたは私のバレエへの情熱を受け継いで生まれた子供。 踊りから逃れられない運命なのよ」 事故で両足を失った母の声が聞こえる。 オルゴールの音色もクロエの踊りも止む事はなかった。
- 完 -