その穴に気づいたのは、初めての模様替えの時だった。本棚をどかすと、小指の先程の穴が、壁にポツリと空いていた。 ここに越して来たときは、とにかく荷物を運び込むに精一杯だったから気付かなかったのだ。 穴を覗き込んでみると、向こう側に光が見える。部屋の配置を考えると、隣室の灯りに違いない。 こんなボロアパートだから、壁も薄くて脆いんだろう。 ーーふと思い出す。 隣室は確か、女子大生が住んでいたはずだ!!
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はやる気持ちを抑えて、一度穴から少し離れる。覗きは犯罪だ。しかし、たまたま見つけた穴から、たまたま女の子が見えてしまった。これは偶然である。なんの問題もない。 ゆっくりと深呼吸をしてから、穴に近づいて、向こう側を覗き込む。 一番に目に入ったのは可愛らしいぬいぐるみのおびただしい数だ。部屋を埋め尽くさんばかりにぬいぐるみがそちらこちらにおかれている。 そして、それらは全てこちらを向いていた。
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ぬいぐるみたちの視線。 まるで生きているかのようにじとっとこちらを見ている。 『み て い て』 たくさんあるぬいぐるみのひとつ、薄汚れたうさぎがぴくり、と動いてそう言ったのだ。 いや、気のせいだろう。 穴から離れて、息を整える。気のせいだと言い聞かせる。 また、穴を覗く。 隣に住む女子大生が、ぬいぐるみに話しかけていた。 「お友達がほしいよね」
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そう言って女子大生がこちらを向いた。美人と言っていい部類だろう。その口元は笑っていたが、目にはなんの感情も浮かんではいなかった。 恐怖に襲われ、穴から飛び退く。一体なんなんだ。あの女子大生は穴に気が付いているのだろうか。いや、それよりも、「お友達」って…? 息を整えていると、玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に、珍しいこともあるものだ。
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いったい誰かとドアを開けると、そこに立っていたのは隣の女子大生だった。 思わず半歩ばかり後ずさる。覗きに気づかれたのだろうか。 いや、覗きではない、偶然見えただけなのだ、というようないいわけが通じる雰囲気ではなさそうだった。女子大生の顔は先ほど以上に無表情だ。美人なだけに、怖いような凄みさえ感じられた。 「あ、あの、何か…」 さらに後退したくなるのを抑えて、恐る恐る訊く。すると彼女は
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「お友達になってください」 そう言うのだった。 もしなにも知らない男ならば、こんな美人からそんな事を言われたら飛び上がるほど喜ぶことだろう。 しかし、今の状況と女子大生の表情からみて、その「お友達」がただの遊び友達では無いだろう。 「お友達?」 恐怖を抑えて聞いてみる。 しかし、女子大生なにも言わず、笑みだけを浮かべてこちらにその腕を伸ばしてきた。
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「お隣どうし、お友達、ダメですか」 再び彼女の口が開いた時、今度の彼女は満面の笑みと共に握手の右を差し出した。 やはり、美人の笑顔は魅力的だ。 何を俺は恐怖していたのだろう。そうとも、こんな美人とお友達になれるなら儲けもんだ。 俺も手を伸ばそうと彼女の手に目をやった。 が、その瞬間殺気を感じ後ろに飛び退いた。彼女の爪はとても女子大生のものとは思えぬ、爪垢が瘡蓋でも掻きむしった様に鉄錆ていたのだ。
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彼女は拒否された右手をぼんやりと見つめ、それからきゅっと握って胸元へ引き寄せた。そして、不安げに開いた手のひらを口元に持って行き、その鉄錆た人差し指の爪を、がぶりと齧ったのだ。 僕は距離をとって彼女を見ていることしか出来なかった。彼女の爪は短くなって行く。やがて彼女の人差し指からは何やら黄色の液体が滲み始めた。まるで、血のように。 辿々しい言葉、錆びた爪。滲み出す黄色い液体は、オイルだろうか。
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彼女が僕の手を掴んだ。ヌルヌルとした感触。そして一言行った 「私のお人形になって」 あれからどのくらい立ったのだろうか。 ご主人様はどでかいぬいぐるみの綿を抜いて僕をそのまま閉じ込めた。 僕は今、人形になった。周りを見渡すとでかい人形がそこら中に転がっていた。 半年が立ち、隣に新しい入居者が入ってきた。 彼女は覗き穴から覗く。 「早く私のお人形になってね」 と、呟いた。
- 完 -