珍説:吾輩は猫である

吾輩は猫であった。 名前はなかった。 名前のないまま、吾輩は死んだ。 つい今しがたのことである。

トウト

12年前

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吾輩は空を飛んでいた。 高いところから下を見下ろすと、あれだけ巨大だと思っていた人間の、なんと矮小なことか。 空には沢山の者がいた。 頭と骨だけになった鰯だったり、片足を無くした犬野郎、額に穴があいた狸と狐が、お前が先に死んだ。いーやお前が先に死んだ、としょうもない事を喚いている。もう死んでるんだからどちらでもいいだろうと思うのだが。 そんな先人たちの中にあれはいた。我が最愛の三毛猫のミケである。

ミノリ

12年前

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この無秩序な世界にあっても、ミケは凛として動じるところがない。 生前と少しも変わらぬ孤高の佇まい。 先に死なれ、もはやあの約束は果たせぬものと思っていたが、死んで再び逢えるとは。 何たる幸運。何たる奇跡。 吾輩はミケに近づこうと脚をバタバタさせてみたが、思うように進んでくれぬ。 ここで諦めてなるものか。尚も脚をバタバタバタ… クスクス。 必死にもがく吾輩を、笑う者がいる。

hayayacco

12年前

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吾輩を笑うのは誰であるか。 そう声を張り上げてみると案外すんなりと声帯は震え、音となって空気に転がり出た。霊界の仕組みというのはよくわからないが、先程の狸と狐の例に漏れず、吾輩も話すことが出来る様だ。 吾輩だって、古臭い!それと自分が名乗りもせずに、人の名前を聞くのは失礼だと思わないのかい? 揚げ足取りの様な事を言われて腹が立ったが、まあ良い。此方から名乗り出るのは確かに礼儀と言うものだ。

餡蜜.

12年前

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やや、すまぬ 人に名を尋ねる時は此方が先に名乗るのが礼儀だな しかしなんだ、吾輩には姓名というものが無い 好きに呼んでくれ、何でも良いぞ 先程の様に声を張り上げた 話し方まで古臭いんだね、君 ふふ、面白いじゃないか どこからともなく聞こえて来た声と共に シュッと目の前に何かが降り立った 僕は漱 夏目漱石の漱だ 飼い主が近代文好きでね 君のことは鴎外とでも呼ぼう 話し方が古人ぽいからね

柄杓

11年前

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むむ、漱殿は随分と可愛らしい。吾輩の狩猟本能を擽る容姿をしているな。 ゴゥルデンハムスタァだからね。飛びかからないでくれよ。猫に噛まれるのも夭逝するのも一度で充分だ。 精進しよう。 鴎外君、君はいかにして夭することになったのかい。 吾輩一生の不覚。保健所とやらに引っ捕まったのだ。 成る程、彼らのお蔭でここらは大繁盛だ。 吾輩としたことが!すっかり失念しておった。ミケは今何処へ。

朗らか

11年前

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再びバタバタと足掻き始めた吾輩を、漱殿は愉快そうに見た。 そんなやり方じゃ駄目だ、もっとゆっくり動くのさ。 漱殿は、吾輩よりずっと短い手足を、ゆったり優雅に動かしてみせる。 おお忝い、と吾輩もそれを真似た。バタバタするより格段速く前に進むのは、実に不思議なことであった。 そうそう、上手いじゃないか。ここでは急ぐのは禁物なのさ。 ところで君は、ミケさんの知り合いなのかい?

misato

10年前

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如何にも。あれは我が最愛の伴侶である。 つい得意満面になる吾輩を顧みる漱殿は、つぶらな瞳をより一層丸みの帯びたものにし顎を撫でた。 そうか…では君がミケさんの約束の相手なのだね。 漱殿が半瞬ほろ苦い顔を見せる。しかし悪戯にその顛末を語る事はしなかった。 蛇行遊泳を続ける漱殿が指す先には、雲海の末端。そこにかの後ろ姿を見つけ、髭に震えが疾る。 富士山の勝景を眺める誂え向きの場所にミケはいた。

おやぶん

10年前

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それに質量はない。触れることはできない。 霧のようにすり抜けてしまう。 富士にかかる陽光は未だに髭をてらす。 目の周りの濡れた毛も照らす。 吾輩は伴侶のことは忘れることはない。 しかし、振り向くこともない。 吾輩は猫である。記憶することは苦手だから。 嗚呼・・・。 哀しいかな。記憶と現実が仲違いするとは。 辛い記憶は、雪解け水に乗せて・・・。 ー了ー

江口鬼扇

10年前

- 完 -