珍説:吾輩は猫である
吾輩は猫であった。
名前はなかった。
名前のないまま、吾輩は死んだ。
つい今しがたのことである。
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吾輩は空を飛んでいた。
高いところから下を見下ろすと、あれだけ巨大だと思っていた人間の、なんと矮小なことか。
空には沢山の者がいた。
頭と骨だけになった鰯だったり、片足を無くした犬野郎、額に穴があいた狸と狐が、お前が先に死んだ。いーやお前が先に死んだ、としょうもない事を喚いている。もう死んでるんだからどちらでもいいだろうと思うのだが。
そんな先人たちの中にあれはいた。我が最愛の三毛猫のミケである。
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この無秩序な世界にあっても、ミケは凛として動じるところがない。
生前と少しも変わらぬ孤高の佇まい。
先に死なれ、もはやあの約束は果たせぬものと思っていたが、死んで再び逢えるとは。
何たる幸運。何たる奇跡。
吾輩はミケに近づこうと脚をバタバタさせてみたが、思うように進んでくれぬ。
ここで諦めてなるものか。尚も脚をバタバタバタ…
クスクス。
必死にもがく吾輩を、笑う者がいる。
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吾輩を笑うのは誰であるか。
そう声を張り上げてみると案外すんなりと声帯は震え、音となって空気に転がり出た。霊界の仕組みというのはよくわからないが、先程の狸と狐の例に漏れず、吾輩も話すことが出来る様だ。
吾輩だって、古臭い!それと自分が名乗りもせずに、人の名前を聞くのは失礼だと思わないのかい?
揚げ足取りの様な事を言われて腹が立ったが、まあ良い。此方から名乗り出るのは確かに礼儀と言うものだ。
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やや、すまぬ
人に名を尋ねる時は此方が先に名乗るのが礼儀だな
しかしなんだ、吾輩には姓名というものが無い
好きに呼んでくれ、何でも良いぞ
先程の様に声を張り上げた
話し方まで古臭いんだね、君
ふふ、面白いじゃないか
どこからともなく聞こえて来た声と共に
シュッと目の前に何かが降り立った
僕は漱
夏目漱石の漱だ
飼い主が近代文好きでね
君のことは鴎外とでも呼ぼう
話し方が古人ぽいからね
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むむ、漱殿は随分と可愛らしい。吾輩の狩猟本能を擽る容姿をしているな。
ゴゥルデンハムスタァだからね。飛びかからないでくれよ。猫に噛まれるのも夭逝するのも一度で充分だ。
精進しよう。
鴎外君、君はいかにして夭することになったのかい。
吾輩一生の不覚。保健所とやらに引っ捕まったのだ。
成る程、彼らのお蔭でここらは大繁盛だ。
吾輩としたことが!すっかり失念しておった。ミケは今何処へ。
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再びバタバタと足掻き始めた吾輩を、漱殿は愉快そうに見た。
そんなやり方じゃ駄目だ、もっとゆっくり動くのさ。
漱殿は、吾輩よりずっと短い手足を、ゆったり優雅に動かしてみせる。
おお忝い、と吾輩もそれを真似た。バタバタするより格段速く前に進むのは、実に不思議なことであった。
そうそう、上手いじゃないか。ここでは急ぐのは禁物なのさ。
ところで君は、ミケさんの知り合いなのかい?
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如何にも。あれは我が最愛の伴侶である。
つい得意満面になる吾輩を顧みる漱殿は、つぶらな瞳をより一層丸みの帯びたものにし顎を撫でた。
そうか…では君がミケさんの約束の相手なのだね。
漱殿が半瞬ほろ苦い顔を見せる。しかし悪戯にその顛末を語る事はしなかった。
蛇行遊泳を続ける漱殿が指す先には、雲海の末端。そこにかの後ろ姿を見つけ、髭に震えが疾る。
富士山の勝景を眺める誂え向きの場所にミケはいた。
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それに質量はない。触れることはできない。
霧のようにすり抜けてしまう。
富士にかかる陽光は未だに髭をてらす。
目の周りの濡れた毛も照らす。
吾輩は伴侶のことは忘れることはない。
しかし、振り向くこともない。
吾輩は猫である。記憶することは苦手だから。
嗚呼・・・。
哀しいかな。記憶と現実が仲違いするとは。
辛い記憶は、雪解け水に乗せて・・・。
ー了ー
- 完 -
作品情報
珍説:吾輩は猫である
#8767
- リレー期間
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1年7ヶ月