「サーカスだ。町にサーカスが来るよ!」 私が夕食の買い物をすませ、家路を急いでいると、そんなことを言いながら子供が駆けていった。 サーカス──その言葉に私はビクンと身を震わせる。 子供が落としていったらしいチラシを拾った。 それには、クマの玉乗り、ライオンの火の輪くぐり、戯けるピエロなどがイラストで刷られていた。 (間違いない。このサーカスは…) 私の身は戦慄を覚え、胸は高鳴っていた。
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何、近づきさえしなければ大丈夫だ。 今更この生活を手放せるはずもない。 愛してくれる夫も娘たちもいる。 例えすれ違ったとて、私の顔などおぼえていないだろう。 20年前、私はある場所から命からがら逃げ出した。 そのある場所こそが、『アーウィンサーカス団』。 すっかり忘れ去っていた恐怖心が、急速に、当時のまま体中を駆け回る。
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娘達に…夫にさえも秘密にしているが、私はアーウィンサーカス団の中で育った。私はそこで火を自由自在に操る技を叩き込まれた。毎日辛かったけれど『スター』になる事を目標にひたすら火を操った。 『スター』は十歳を迎えた団員から選ばれる。選ばれた団員は数週間の研修を経て本当のスターとなる。 私も十歳の時『スター』になった。研修に向った先は豪奢な宮殿。そこで見た恐ろしい『研修』は20年経った今でも夢に見る程…
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賑やかな音色に混じって原色のパレードが近付いて来る。今夜から公演が始まるらしい。 無事にやり過ごせるよう無関心を装う、気がかりは娘達が興味を持たないで居てくれる事だけ。 「お母さんサーカスが来てるよ!」 帰宅の挨拶と共に願いは虚しくも絶たれる。 上の子はともかく十歳になったばかりの末娘が、今にもパレードについて行かんばかりのはしゃぎぶり。 どうなだめるか考えていると、夫も帰って来た。
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「ようし、じゃあみんなで行こう」 末娘から早速サーカスの話を聞かされて、夫はにこにこと頷いた。 「今度の日曜日ね!約束だよ、お父さん、お母さん!」 無邪気に喜ぶ娘の姿に、昔の自分の姿が重なった。 ずっとずっと前に、私もこうして家族とサーカスを見に行った。そして私だけサーカスに攫われた。二度と家には帰れなかった。 「......ねえ聞いてる?お母さん、さっきから怖い顔してるけどどうしたの?」
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「なんでもないわよ。サーカスね、賑やかでいいね。でもお母さん、心配性だから、ドキドキハラハラさせられるのってちょっと苦手なの」 ふーん。 娘がじっと私の目を見つめてきた。 「何も、お前が芸を披露する訳じゃないだろうに。だったら、父さんと二人で見に行こうか」 娘の返事を私は遮った。 「だめ! 私を置いていくなんて」 「やっぱりお前も行きたいんじゃないか」 行くからには、娘から絶対に目を離さない。
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満員の報告を聞いた針金髭に派手な出立ちの大男は算盤の指を止め、演舞場袖のカーテンの隙間から客席を眺めた。 「どれどれ、未来のスターはいるかな?」大男は針金髭と一緒に鼻をンガンガ啜り匂いを嗅ぐ。 「ん⁉おやおや、これはこれはこれは懐かしい匂い!」ギョロ目を仕切に動かすと、ある家族の少女にピタッと止まった。 「ファイヤースターター‼20年前の借り、支払わせてもらうぞ~」アーウィン団長の唇が耳迄裂けた。
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クマの玉乗り、ライオンの火の輪くぐり、戯けるピエロ。 綱渡り、空中ブランコ、一輪車。 滞りなくプログラムは進む。昔と変わらない順番。流石に演じる人は昔と全員同じではないみたいだけれど、昔からいた人もいた 「皆様ご来園ありがとうございます。今から誰か観客の方に協力してもらいたいと思います」 サーカスの団長が出てきた。…あいつだ。 どくどくと鳴る心臓。 目があったあいつがニヤリと嗤った気がした。
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私は慌てて帽子を目深く被り、顔を隠した。 「おい、室内なんだから帽子は脱いで…」 「それでは選ばせて頂きましょう‼…は〜い、そこの奥のお嬢さん‼」 「え⁉私⁉」 「‼」 背筋が凍った。 なんと、娘を指名してきたのだ‼ 「わ〜い!やった〜♡」 「おっ、良かったな〜。こんな機会なかなかないぞ!」 周りから拍手が湧いた。 このままでは、娘はあの時と同じ様に…。 私は一人、団長を睨みつけていた…。
- 完 -