雪の日のことだった。ごく平凡な一軒家に目覚まし時計の音が響いた。 それは別段に珍しいことではないのだが一週間のうちに一日だけ日曜日の朝には鳴らない筈なのだがけたたましく日曜の朝になり響いている。 けたたましく響く音を聞き少年は目を覚ました。目を覚ましたと言っても目覚まし時計を止めるためではない。目覚まし時計は彼がかけたわけではないのだ。 少年の母が少年を起こすためリビングに置いているのだ。
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少年は一つ欠伸をして起き上がるとノロノロとリビングに向かった。目覚まし時計を止めると途端に辺りは静寂に包まれた。それはもう異常な程の静寂で少年は少なからず不安を覚えた。いつもの日曜の朝であれば父親が眺めるテレビの音や母親が朝食の支度をする音が聞こえるはずだが肝心の両親の姿が見当たらない。 そもそも日曜に目覚ましが鳴り響いた時点でおかしい訳で少年はさらに家の中を見て回ったがやはり両親の姿はなかった。
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両親は自分を置いて何処かへ出掛けたのかもしれぬ、と少年は勘繰ったが、よく考えてみればそれもおかしい話なのだ。 両親はいつも外へ行くときには少年にひと声かけてから行く。たとえそれがゴミ出しのようなちっぽけな外出の時であろうと、両親が二人も揃って勝手に何処かへ行ってしまうことなど未だ嘗て無かった。 少年は一人で食卓についた。 寒さがやけに身に染みる。少年はふと窓の外を見たが、外はただただ白雪だった。
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トーストにジャムを塗り、ミルクたっぷりのカフェオレを淹れた。普通に朝食をとっている自分は異常だろうか、と少年はぼんやり考える。あるいはこうしてトーストをかじっている間に、両親が帰ってくるのではないかという期待もあった。 しかし、トーストを食べ、カフェオレを最後の一滴まで飲み干しても、ただいまの声がすることはなかった。 少年はついに外に出てみることにした。一面の雪景色の中へ。
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玄関のドアを開けると、冷たい風が吹きつけてきた。コートの襟をきつく合わせ、少年は静かに外に出た。 雪は数センチほど積もっていた。いつから降り始めたのだろう。昨晩、眠る前にカーテンを閉めたときには、まだ降っていなかったはずだ。 辺りが白い以外は、いつもと変わらぬ景色。けれど何か違和感を覚える。 当てもなく歩き出し、やがて少年は気づいた。家にいないはずの両親の足跡がないのだ。雪で消えたのだろうか。
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だとしたら、両親が家を出たのは雪が積もる前の夜中という事になる。そんな事があるのだろうか。ひと気の無い歩き慣れた筈のあぜ道で、少年は足を止める。 ひたすらに降り続く雪に、耳が痛くなりそうな程の静寂。雪化粧された風景は不気味な程に青白い。見据えた雪道は、なんの跡もなく真っさらだった。 こちらにはいないのだろうか。 踵を返そうとした少年は、自身の足跡に違和感を覚える。 それは、一回り程大きかった。
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どういうことだ。そう呟いた自分の声に思わず後ろを振り返った。誰だ、今の声は。だが周りを見渡しても一人もおらず、足跡も自分と思しきモノだけ。辺りは変わらず静寂のみで風の音すらない。本来なら真っ白な雪原に美しいと心は動く筈だが、恐怖心がみるみる心を支配してゆくのが分かった。 帰ろう。 そう思うだけに留めひたすら前を見て自分の足跡を見ぬように家まで走った。そして、玄関に置かれたカレンダーを見て絶句した。
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2035年、1月。 玄関に並ぶ靴は全て大人のサイズ。さっき無意識に履いていた靴は驚くほどぴったりだった。部屋のインテリアは変わっていない。少し色褪せていたり傷が増えていたり。 鏡を見るのが怖い。カレンダーが本物なら今の自分は30になる。 現実を受け入れなくてはいけない。洗面所に向かい目を瞑り鏡の前に立つ。薄めで鏡の中の自分を見る。ボサボサ頭がぼんやり見えた。目を凝らしてみると、無精髭もある。
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「あら、早起きね」 振り返る。グレーのセーターを着た優しい顔立ちの…妻がいた。 ホワイトアウトという気象現象がある。雪や雲の乱反射で太陽も足元も白一色になって、自分の位置さえ識別できなくなるという。こんな雪の日には、人の意識の中でも起こるのかもしれない。 「どこに行ってたの?」 ちょっと子どものころに、と言いかけて僕は妻に近寄り手を握る。強く。 過去や未来で、独りで目覚めたくなかったから。
- 完 -