学校の最寄り駅から徒歩5分の古書店で、私は頭が真っ白になっていた。 私の読みたかった本がない。 以前持っていた本なのだが、一時の気の迷いにより手放してしまったのだ。 再度読み返したくなったのだ。 本が陳列されている棚を隅から隅まで舐める様に見ても私が探している本は見つからない。 つい先日まで、店の一番奥にどっしりと構えている棚に入っていたのだ。 それが、無い。
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棚たちは、あたかもそんな本なんて知りませんよとでも言うように、静かに埃を被っている。 ふと、カウンターの安楽椅子で古文書に没頭する店主の姿が視界に入った。この気難しげなおじいちゃんに訊くしかあるまい。 私が恐るおそる本の在庫を尋ねると、彼はビン底眼鏡をずり上げながら言った。 「奇遇だなあ。その本は別のお客さんに取り置きをお願いされたんで棚から出してあるんだが、その期限が今日までなんだよ」
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店主の目が振り子時計の文字盤を追い、枯れ枝のような指が数をかぞえる。 「そうさなあ。今日の日没までに先約が来なきゃ棚に戻す予定だよ」 私も制服の袖から腕時計を見て思案する。日没まであと3時間といったところか。予定はないが、潰す時間があるならあの本の読書に費やしたかった。 その気持ちが、顔に出たのかもしれない。 「本を待ちたいなら店の二階を使うかい?」 倉庫だけどね、とおじいちゃんは言う。
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こくりと頷き、もう一度、棚を振り返る。棚は、静かに本を包み込む。 こっちだよ、というおじいちゃんの声に私は慌てて視線を戻した。お邪魔します、と呟いて階段を登る。木の匂いがした。 「ここを使いなさい。少し寒いが」 ありがとうございます、と小さく答えて、そっと荷物を置く。倉庫というだけあって、壁一面の棚にはびっしりと本が詰められていた。 「なんなら何か読んでいるといい。古本しかないがね」
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おじいちゃんが去った後、私は導かれるようにして一冊の本を手に取った。 本が好き、と自称する方ならわかると思うが、時折自分の意思ではなくふらりと足が本を目指して歩き出す。今もそれとよく似ていた。 その本は相当古いらしく、黄ばんだ紙の匂いと埃が鼻腔をくすぐる。文字は日本語ではなかった。いや、日本語なのかもしれないが、現代私たちが使っている言葉とはまるで違う。 それでも、私は夢中になった。
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どうして古本屋にこの本があるんだろう。この本の持ち主はなぜこれを手放してしまったんだろう。 読めないはずの言葉を読み込みながら、私はそう思った。私のように、気の迷いで手放してしまったのだろうか。 「おおい、時間だよ」 背後からかけられた声に気がつけば、もう辺りは薄暗い。肌寒くなって、私は読んでいた本を抱きしめる。 「……ちょうど今、取り置きのお客さんが来てね。その人に会って話すかい?」
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「……はい。お願いします」 私は一瞬迷うも話してみる事を選んだ。その言葉を聞いたおじいちゃんは肩を竦め、ゆっくりと下の階へ降りて行く。 「あの、取り置きのお客さんってどんな人ですか?」 ふと、そんな疑問が口から漏れた。薄暗い階段の途中で、前を歩いていたおじいちゃんが足を止めて振り向き、僅かに億劫そうな顔をしてこう言った。 「眼鏡をかけた大人しそうな男だよ。歳はお前さんと同じくらいかね」
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「静くん?」 「栞…」 階段下で待っていたのは意外にも知り合いだった。高校を離れて以来顔を合わせていなかった幼馴染、かつて共に遊んだ本の虫同士。 「それ、静くんが?」 「……昔を、思い出して。ふと読みたくなってさ」 そうだ、この本は。 私と静くんが意気投合したきっかけの本。どうして手放してしまったんだろう。どうして今更、互いに読み返そうと思ったんだろう。 「私もだよ。どうしても読みたくて」
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本を手にすることは、運命に導かれることと似ている。倉庫の棚にびっしり詰められても、まだ収まりきらない数の本があるというのに、私たちはたった一冊の同じ本を選ぼうとしていた。 鼓動は早くなり、胸が苦しくなっていく。同じものを好きであることの絶対的共感が、ぐっと息を飲み込ませてくる。顔が熱くなってきて、静くんの顔が見れなくなった。 「「あの、よかったら…」」 長い沈黙の後、二人の声が重なった。
- 完 -