我が家の灰色猫、斉藤さんが人語を話しました。 フィクションの世界では在り来たりでしょうが、ノンフィクションの、しかも一人暮らしの私の家で突然「昼飯」なんてぼそっと低い声がしましたからね。初めはお腹の空いた泥棒でも入って来たのかと思いましたよ。 思わず聞き返したら斉藤さんがご丁寧に目の前まで来て「だから、飯だよ飯。腹減ったの」と呆れた様に仰いました。 斉藤さん、オスでいらっしゃったんですね…。
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なぜ猫なのに斎藤さんだなんて名前をつけたかというと、拾った時の首輪にそう書いてあったからです。 そう、斎藤さんは捨て猫でした。 川べりにいたのを持って帰ってから、かれこれ10年も経ちます。拾った当時には既に斎藤さんは20歳――人間の歳で言うと、よぼよぼのお爺さんでしたから、斎藤さんも長生きされたものです。 「当たり前だろう。俺は化け猫なんだから」 あら、斎藤さん、化け猫でいらっしゃったんですね…。
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でも、よくよく考えてみると、普通の猫と化け猫の違いが分かりません。寿命が長くて人語を話す、という事でしょうか。 昼食のカリカリを差し上げてから化け猫について聞いてみると、斉藤さんは「やれやれ」と、またも呆れ顔。 「化け猫が長生きなんじゃなくて、長生きした猫が化け猫になるんだ。俺も昨日までは普通の猫だったしな」 だから急に人語を会得なさったのですね。でも結局、他に普通の猫との違いは無いのでしょうか。
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「違い?猫又とか言う野郎は尻尾が二股だが、化け猫はあまり普通の猫と差異はないな。強いていえば、ほれ」 斉藤さんは急にニカッと笑顔になった。 私は驚いて後ずさり足をタンスの角にぶつけてしまった。 「人間の様に表情を作ることが出来る…大丈夫か?」 悶絶する私の足を斉藤さんがお舐めになる。 結構痛い、ざらざらして痛い、嬉しいけど痛い…。 私は複雑な気持ちに苛まれて苦笑いした。 斉藤さん、優しいですね。
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「しかし、これであんたも安心だな」 痛みが治まると、斉藤さんは香箱座りになって仰いました。 「何故です?」 私は首を傾げます。飼い猫が化け猫で、何が安心だというのでしょう。 けれど斉藤さんは、当然だという顔で頷きました。 「これから俺は、更に長生きするからな。あんたを見送ってやれるだろう」 え、見送る? 「私、死ぬんですか?」 「そりゃ、いつかはな…」 って、喋りながらうとうとしないでくださいよ。
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「日が暖かいものでな」 春の日差しは緩やかに縁側へ訪れ、ポカポカと和やかな雰囲気を醸し出していました。斉藤さんはゴロニャーゴと言わんばかりに大きく口を開け、あくびをなさると、丸まった身体に顔をうずめるのでした。おやおや、おねむでしょうか。化け猫といえども、お休みになる姿はかわいらしいものですね。 「んにゃ。見送られて泣かれてばかりだと、猫もはがゆいものさ」 片方だけが逝くのは悲しいものですよね。
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そりゃあ私もできれば長生きしたいですけれど、ひょっとしたら明日死んでしまうかもしれないし、運良くそうでなかったとしても歳をとればいつかは旅立つのでしょう。 けれども、そうしたら。 「斉藤さんはひとりぼっちでまた長い年月を過ごすのでしょうか…」 斉藤さんはすっかり寝入っていて、答えてくれません。 いいえ、優しい斉藤さんのことです。聞こえないふりをしているのかもしれません。
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短い毛が手に纏わりつきます。縁側で太陽を浴びた斉藤さんは、いつにも増して気持ちが良いです。 「私は斉藤さんとあと何度、季節を共にできるのでしょうね」 斉藤さんは、耳をぱたぱたっとしました。喉鳴らしサービスもしてくださっているので、起きているのでしょう。 「なんで、先のこと考えて不安になりたがるのかね」 呟いて、斉藤さんはくるりと脇を出しました。わかりました、撫でるところを変えろと仰るのですね。
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首筋から胸元にかけて撫でると斉藤さんは満足そうに笑いました。 「人間は先の事ばかりを気にして目の前のことにゃ気がつきゃしない。ほら、見てみ」 斉藤さんの鼻先が示す先に広がる桜世界。 ああ、またこの季節が巡ってきたのですね。 「桜とあんたと俺がいる。今はそれでいいのさ」 そうですね。斉藤さんがそう仰られるのなら。 灰色猫の斉藤さんを膝に抱え、私は今日も縁側に居ます。 今感じられる幸せを受けながら。
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