米畑、と表札の掛かった平屋の一軒家。古民家らしく引き戸の玄関をガラガラ響かせ、休日の街まで出ていた息子が帰ってきた。 「おかえり勇吹。アンタ随分早く帰ってきたわね。メール見てくれた?」 「見たっつの!それで直帰したし。頼まれたモンも買ってきたけど…まさか母ちゃんがコレ必要なの?」 テーブルに置いたレジ袋が、ばさりと鳴る。 「違うの、おばあちゃんがね急に欲しいって」 それは終活ノートだった。
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テーブルの上に置かれた一冊のノート。たかがノートだが、そのタイトルが、それをノート以上の存在に仕立て上げていた。 それを眺めて息子が溜息交じりに呟いた。 「どうして、婆ちゃんがこんなもの必要だって言うんだよ。元気でピンピンしてんじゃんか」 「それはお母さんにも分からないわよ。でもね」 でも?と首を傾げる息子を見る。 「だからこそ、いつか来る終りを覚悟してるんじゃないからしね」
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「いつか来る終わり、か」 俺は自分の部屋に戻ると布団に腰を下ろしながら先程母が言った言葉を反復していた。 確かに俺にも終わりはあるのだ。それは60年も先のことかもしれないし、はたまた明日なのかも知れない。 いつ自分に終わりが訪れるのかなんて誰も知らないのだ。 「俺も書いてみよっかな? 流石にこの年で終活ノートは不吉だし、そうだな……」 俺は棚から取り出したノートの表紙にこう書いた。 『宣言ノート』
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1ページ目を開いてみる。まっさらなノート。 終活ノートには、自分のことや自分史、友人関係、遺産の行方や形見分けなんかを書くらしい。 それに倣って、最初のページには自分のプロフィール。 次のページには簡単な自分史、親しい友人たちの名前と関係の相関図。 さらに次のぺージを開いた。 『1年後に死ぬとしたら、それまでに』とタイトルを書き付ける。 さあ、宣言を始めよう。 1年しかないとしたら?
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一年、か。後に尾を引く事は出来ない。 自分の為に何かしようか、誰かの為の事にしようか。 悩んでいると、背中をばしん、と強く叩かれた。 「いっくんあんた、その年で終活は縁起悪いんと違うかい?やめときやめとき!」 「いってーな、婆ちゃん!これは終活じゃないの!」 婆ちゃんはけらけらと笑っている。ったく、何でこんな人が終活なんて。 ……何で、なんだろう。 「なあ、婆ちゃん。終活するって、どんな気分?」
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気分爽快、と婆ちゃんは自信満々に断言した。 「迷いが晴れるからね。目的なく悪戯に時間を過ごすのとはわけが違う」 「婆ちゃんでも迷うことなんてあるんだ」 「人生迷うことばっか。そんなの当然じゃない。今までも、これからも。でも、迷うからここまでやってこれた。私からすれば、迷いは友達みたいなもんだね」 ふーん。 「そんなことより、いっくん林檎向いてやろうか?」 今はいいよ、と俺は笑った。
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俺の返事が聞こえてないのか、婆ちゃんは果物ナイフを手に林檎を剥き始めた。スルスルと林檎の皮が落ちていく。 「婆ちゃんは書いたの? 終活ノート」 「まだだよ。死ぬまでに書き終わらないかもしれないね」 そう言いながら、剥き終えた林檎を切り分ける。 「それじゃ死ぬ覚悟なんかできないだろ」 「覚悟が決まるのは迷いが残らず晴れたときさ。だけど生きてる限り、迷いは尽きないよ」 俺は宣言ノートをパタンと閉じた。
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人生迷うことばっか。婆ちゃんの言葉が胸に残った。 俺も迷ってばかりだ。宣言ノートを書こうと思ったのも、自分の意思を固めたかったからかもしれない。 けれど、生きている限り迷いは続く。なら、人は一生迷いながら生きていかなくてはならないのだろうか。 「……なあ、婆ちゃん。なんで人は迷うんだ? どうして、もがきながらも生きるんだろう?」 俺は、今の俺にとっての素朴な疑問を投げかけてみた。
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「難しい事は、私にも分からないけどね」 前置く婆ちゃんは合わせた両手を小さく丸めて、8つに切られた林檎に目を落とす。 「いっくん、林檎、幾つ食べる?」 「婆ちゃんと半々で、4つだろ」 少し考えて答える俺を見て婆ちゃんは、ふふっと肩を揺らす。 「じゃあ、私がいなかったら、幾つ食べる?」 そりゃ全部食べ─ 浮かびかけた言葉を、飲み込んだ。 俺の宣言ノートには、一言。 「婆ちゃんみたいになる」
- 完 -