きみ、相貌失認という病気をご存知かな。
失顔症なんて呼ばれたりもしている。
他人の顔に靄が掛かる、或いは崩れたように見える等して、判別できなくなる病気だ。
テレビで取り上げられたりしたから、聞いたことのある人は多いと思う。
さて話題は顔が認識できない話から始まったが、今回私が伝えたいのは
全く別のものが見えなくなる症例を発見したこと。
原因はやはり脳。何が判別できなくなるのかと言うと、
それは自分の心だ。
今、自分が何を感じているのか判別できなくなるのだ。確かに不快感を感じてはいるのに本人はそれを分かっていなかったり、嬉しいはずなのにわけもなく怒りを覚えたりするという症例がある。
この病気の怖いところは、それによって人間関係が上手くいかなくなり、まともに社会生活を送れなくなるというところにある。
しかも私の統計によると、その患者数が最近急増しているようなのだ。この資料によると、
これまで自我失認あるいは失心症と呼ばれるこの病気の国内発症数は年間5件前後で推移していた。しかし3年前に49件が認定されたのを契機として急増し、昨年度の発症数は実に約5千件。これは何らかの外的要因なくしてあり得ない数字だ。
その要因を探る中で、私は偶然興味深いデータを発見した。自我失認の急増と全く同じように、3年前から急増している現象があったのだ。一見、何ら因果関係のなさそうなその現象とは、
とある魚の消費量の増加である。
その魚は至って普通の、特に美味であると賞賛されることもない種であった。漁師たちが市場に出さず、漁師町でその日の夕食として食べてしまうことが多いような、高値もつかない魚。
なのに、3年前から市場への出回りが急上昇しているのである。
一見すると何の関係もない2つのデータ。しかし、とある漁師町で自我失認の患者が複数確認されたことから、私はこの因果関係に辿り着いた。
良く有るダイエットブームで世に出回る様になり、今では南蛮漬けや唐揚げが居酒屋のメニューにも並んでいる、コモナゴと呼ばれる魚。
調査を続ける内に判明したとある事実が、私を困惑させ、そしてすぐに戦慄させた。
TVは勿論、雑誌、新聞、凡ゆるメディアにおいて、この小魚を扱った記録が無い。
検索して出てくるのはHPやBlogや匿名掲示板、Twitterなど。それも既にブームが始まったと思しき物ばかりだ。
誰が、どうやってブームを巻き起こしたか。調査が難航したので私はコモナゴそのものを調べてみることにした。この魚、個体数はかなり多いはずだが奇妙な特徴がある。
群を作らない。
成長すると単体で海を回遊し、それが自然であるかのように食物連鎖の輪に入る。私はこの魚を二十匹程捕まえて飼育することにした。すると驚くべき結果が判明した。
この魚、どうやら生まれながらにして相貌失認を患っているようなのだ。
クールー病など、悪性の蛋白質を摂取すると脳神経に支障を来すことが確認されている。
まだ、仮説の段階ではあるが、相貌失認を患っているコモナゴの蛋白質は悪性のものであると推察できる。悪性の蛋白質を食べることが、自我失認を引き起こしていると考えられるのだ。
カビが生えているなど、通常、病持ちの魚が食卓にあがることは稀である。相貌失認を患っているコモナゴは、その症状を見かけで理解できないところに穴がある。
この仮説が正しいならば、悪性のコモナゴを食すことが自我失認に繋がるとされる。
きみは知らないと思うが、今この国の経済は人口減に伴う経済力低下で困窮している。このまま失心症が全国的に進行すればその被害は計り知れん。
だが私の仮説が証明されれば国は対策を講じ、再び舵を切ることができるかもしれない。
どうしてきみにこの話を持ちかけたか、納得してもらえたね?
死刑間近のきみなら、解るはずだ。
きみの目の前にあるそれは、察しの通りコモナゴだ。私の検証で、相貌失認を患っていることは確認済みだよ。
死刑間際が冗談だと思うかい。だが、これは本当なんだ。きみの死刑執行認可書には、既に法務大臣の捺印がなされている。──恐ろしいかな。
しかし悪い話じゃないだろう。きみは自我を忘れて、死さえも客観視できるようになる。どうだい?
…その気になったようだね。感謝するよ。これで、私の仮説は証明される。