吾輩は犬である。名前はすでにある。主から流星という誇らしい名を授かった。 どこで生まれたのかはとんと覚えてはいない。気づけばこの原家の一員となっていた。 吾輩は、原家の犬として10年余生きてきた。自分で言うのもなんだが、この10年余、吾輩は原家に忠実と礼節を尽くしてきたと思う。 そんな吾輩だが、最近悩み事があった。
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主の体調がすごく悪そうなのだ。 というよりも悪いのだ。 吾輩の主は家族の前では絶対に弱音を吐かない昔ながらの頑固親父だ。 そんな頑固親父の主が3日前何ヶ月かぶりに、吾輩を散歩に連れ出したときのこと。 いつもの散歩コースから外れ川沿いを散歩して、途中の土手に腰を下ろした。タバコに火をつけて深く煙を吸って、「ぷぅ〜…」と吐いたあと、静かに言った。 「なぁ流星、お前は犬だ。だが家族だ!」 そう言って主は
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吾輩の頭を力一杯撫で回すのだ。 少し痛いが、大きくていつも暖かな手が今日に限って冷たく震えていたのだ。 よく見ればタバコをつけた手もフルフルと震え、最初に口つけた後から再び口につけることはなかった。 タバコは灰になり、日が落ち影が伸びた。 「これで最後だ、タバコも散歩も 汚ねぇ面見せんのも...」 隣から小さく啜り声がした。吾輩は夕日をみていた。 数日後、主が吾輩を置いて行った
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我輩は由緒正しい血統のある犬を父母に持つ、まぁ雑種の犬なのだが、それでも犬としての誇りは持っているつもりである。 主は私に完璧な愛情を与えてくれた。私はその恩に報いる義務がある。猫の様な薄情な者たちとは違うのである。 主人が帰ってくるまでは、私は断食することにした。必死の祈りは、お天道様が叶えてくれると父が言っていた。 人間に言葉が通じない以上行動で示すしか方法はないのだ。
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「だあれが薄情な奴だって?」 塀の上から太々しい声が聞こえ、見上げると、そこには三毛猫が尾を小さく揺らしながら座っていた。 「お前さんは心底主さんを信頼して居るようだねえ。ご立派なもんだ」 三毛猫は吾輩を見下ろす。 「お前にはわからぬ、吾輩の主がいかに立派な事か」 力一杯睨みながら言うと、猫は嘲笑した。 「やあやあ、忠犬だこと。…ところで今日はそんなお前さんにとっておきの情報を持ってきたのだが」
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「猫の戯言など聞く価値もない」 「まあまあ、そう言いなさんな」 何がそんなに可笑しいのか、三毛猫はさらに笑みを深めた。その態度が吾輩の神経を逆撫でする。 「さっさと何処かへ消えるがいい」 「強情だねえ。俺はただ善意で話してやろうっていうのに」 三毛猫が目を細める。そして、吾輩が言葉を発するよりも早く口を開いた。 「主さんがお前さんを置いていった理由、知りたくないのかい?」
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猫の瞳が切れ長にのびた。 「話を聞く気になったか、流星さんよ」 吾輩は憮然としたままである。そう努めた。 「原家の主は高齢だった。最後の散歩も、何ヶ月ぶりだったそうじゃあないか」 その通り。主人はここ最近、黙りこくって家人が話しかけてもしかめっ面をしていた。頑固者なのだ。 「年寄りは頭が参っちまうのさ。そういうのが送られる所がある。お前さんが捨てられたんじゃない。主人が家族から捨てられたのさ」
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「それが何処にあるか、お前は知っているのか」 逸る気持ちを抑えて、吾輩は尋ねる。勿論、と猫は笑った。 「仲間が見たそうだ。時々、外に出して貰って日向ぼっこをしてるらしいぜ」 場所を聞いた吾輩は首輪から体を抜くべく身を捩った。断食のおかげで体はすぐに自由になった。その施設とやらを目指して走る。 家族が主を捨てただと? いや、他の誰がどうであろうと、吾輩は絶対に主についていく。吾輩こそ主の家族なのだ。
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我輩は無我夢中で走った。 そして三毛猫が言っていた施設にたどりつき、庭でくつろぐ主を見つけた。 我輩は主にきづいてもらおうと吠えようとした。が、声が出なかった。断食のせいなのか?己の空腹に気づいた時、もう手遅れだった。我輩はその場に倒れ、目を閉じた。 その夜、ある男がベンチに座り、気持ちよさそうに目を閉じている犬を撫でていた。その男の手は大きくて優しかった。男は夜空に流れる一筋の光を見た。
- 完 -