月に乗せて贈る言の葉

「月が綺麗だね」 どこかで聞いたことがあるフレーズで、でも思い出せなくてもやもやした。 あ、そうだ。 夏目漱石の小説にでてきたじゃないか。 どんな意味だったか、やはり思い出せないけど。 「夏目漱石の小説にありませんでした?」 「え?」 「その台詞」 「あぁ…」

せろり

13年前

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私は買ったばかりの、まだうっすらとしか水滴を纏っていないペットボトルを掴んだ。キャップを捻ると炭酸特有の弾ける音がする。 彼の視線を追って見れば、そこには月が居た。今すぐにでも青空に溶けてしまいそうな、淡くて白い月。昼の月を……否、月を見るのは久々だ。この息苦しい忙しさの渦の中にいるうちに、いつしか空なんてみなくなっていたんだ。 「ほんとに、綺麗な月だね」 もう一口飲みながら、彼に言葉を投げる。

sir0m0

13年前

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彼は少し大げさに口に人差し指を当てた。 「いいんですよ、これで」 といい、また空を見上げた。 私はそのあとたしかに聞こえた。 誰も言わなかったけど、たしかに聞こえた。 「いいんです。これで、それだけで充分なのです。」 むやみに綺麗だなんて言わなくても、そこにあるその月は、形容詞よりも、そこに存在することに必要性があるのです。 私は今の状況を少し飲み込めぬまま ほうけていた。

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『月が綺麗ですね。』 …確かどこかでこの言葉に隠された深い意味を知ったはず。 未だ状況を飲み込みきれない頭をめぐらせてみるが、答はでない。 彼との間に、気まずさとは違う静かな沈黙が訪れた。 私も彼も文学が好きで、度々文学を酒の肴にしていた。彼はおそらく意味を知っている。 …彼に直接訊いてみようか……。 彼に意味を訊くべきか否か考えていると、 ふと、彼の手が私の手にそっと触れたような気がした。

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どどうしょう… 恥ずかしい…でも手を今動かすのは不自然過ぎるし… 頭の中はぐるぐるあれこれ取り乱してるのにそんな私に気付いているのか気付いてないのかそっと手を重ねてきた… でもその視線は月を見たまま ホッとしたような残念なような… 私は恥ずかしさのあまりうつむいたまま 月どころじゃないよ… それと同時に私は彼の事が好きなんだなと改めて思った。 沈黙は続いている まだ混乱をしている私をよそに彼は

13年前

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文学の話を始めていた。 『雨月物語』『1Q84』 『山月記』『農協月へいく』 『月と6ペンス』 私は彼の幸福は横顔を見た。 「ホント私たち文学ばかり」 私は笑った。彼も笑った。 彼は私の落ち着く瞬間を知っているのだ。 胸の高まりは静かに、緩やかに私を期待させた。繋がっている、という共有感は脆く、いつ消えるともしれない。まるで、今見ている、昼間の白月のように。 私は彼の言葉が放たれるのを待った。

aoto

13年前

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「もっと間近で見ていたいものです」 「へっ⁉」 私は素っ頓狂な声をあげた。 「この綺麗な月を」 あ、 「...そうですね」 上擦りそうになる声を無理やり押し殺す。 私は此の人に何を期待しているのだ。 言葉にすれば明晰だ。 『情に触れたい』 漱石が生きていた頃には「愛」という概念はなく「情」があった。 私は彼の言葉の中にそれを見出していたのだ。 「外を歩きましょうか」

13年前

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重ねていた手で促され、私がつられるがままに歩き出す。 彼の半歩後ろ隣に手を握られながら。 先ほどとは違い静けさに歩く二つの足音だけが響き渡る。 ...今こっちをむかれたらヤバイ 私は耳が熱くなっていることを理解していた。風が髪の毛を撫でて行く。 この無言の中で私は夏目漱石の言葉の意味を思い出しかけていた。 つないだ手の指先をピクンと動かしてしまうと、彼はこちらをうかがう様に振替ってしまった。

にらたま

12年前

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「どうかしましたか?」 私は赤い顔を隠すように俯く。彼は立ち止まり、質問を続けた。 「思い出しましたか?」 「え…何、を」 「『月が綺麗ですね』」 「あ…」 今度は首まで赤くなる。どうすれば良いだろう。 「良いですよ、焦らなくとも…最も、貴女の反応で返事は分かってしまいましたが」 クスクス笑い、彼は私の頬をなでた。 頭では、漱石の言葉とその意味--I love you--が、グルグル回っていた。

- 完 -