だいすきなお母さんが、お風呂場で肩を震わせて泣いていた。 三十分程泣いたあと、目はすこし赤くなっていたが、落ちた化粧と涙を綺麗に拭いて、隠れている僕に気がつかないまま、お母さんはリビングへ戻った。 残された僕は、いけないものを見てしまったという罪悪感と、お母さんを泣かせたお父さんへの怒りで、ドアの向こうに突っ立ったまま動けずにいた。
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お父さんは大きい人だ。186センチある。お仕事はよくわからない。むかしはボクシングをしていたけど、今はお金を貸すところで働いてるって、聞いた。 お父さんが小さくなる時があった。お母さんをいっぱい叩いて、お母さんが動けなくなると、お父さんは小さくなって頭を抱えて泣く。何回もごめんて言う。 きっとお父さんはまたアレをやったんだ。アレは卑怯だ。ずるい。許さない。息を吸って、吐いて、戦い方を考える。
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戦い方を考えた…。しかし僕はまだ中学1年だ。 お父さんに力で勝てない。悔しくて泣きそうだ。早く早く大きくなりたい。 そんなことを思っても、お母さんを守れるのは僕しかいない、このままでは、いけない。 わかっている、わかっているんだ! どうなってもいいさ! 次同じことが起きたら絶対に立ち向かう! お母さん、もう隠れて泣かなくても大丈夫だよ。僕がいるから、僕は、お母さんを守るんだ。
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「…なるほど。それであなたは斧で…その…」 「はい、殺しました。」僕は男の目を見つめてはっきりと答えた。 白衣の男は気まずそうに目を逸らし、カルテに目を落とした。 「確認しますが、あなたのお名前と年令は?」 「藤村隆、14歳です。」 「…貴女は以前ご主人に受けた暴力が原因で流産されています…14年前に。憶えていらっしゃいますね?」 何を言っているんだ、この男は。 「この鏡を見ていただけますか?」
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『鏡の中に母さんの顔が写ってる!?』 え? なにで?? なにが起きたんだ??? 鏡を見つめながら僕はパニックに陥った!
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「貴女は重度の精神病により、記憶と妄想が著しく混在しています。」 白衣の男は語る。その口ぶりは明らかに14歳の少年に向けてではない。 「旦那さんは14年前に犯してしまった罪を激しく後悔し、14年間、日に日に症状が悪化していく貴女の側を決して離れず、懸命に看病していました。先ほど貴女が仰ったような暴力を、彼はこの14年間一度もしていません。貴女の妄想です」「嘘だ!」 男が言い終わると同時に僕は叫んだ
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その声が微かに母さんの声に聞こえたのは、きっと洗脳だ、そうさ、きっと洗脳されてるんだ僕は。 母さんを守るために確かに僕は父さんをこの斧で殴り倒した、僕は父さんを殺したんだ、母さんを助けるために。 しかし、目の前の鏡の中には大好きな母さんがうつっている。 どうして‥ その言葉を最後に僕の脳の舞台から僕は消え去った、無理やり引きずり降ろされたのだ、14年間隠し続けた「主人格」、マーサによって。
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気が付くと『私』の頬から涙が落ちた。 「あの人が、悪いのよ」 口を吐いて出たのは恨み言だった。 身勝手に殺したくせに、後悔なんてマトモなことをする。謝罪と懺悔を積み重ねる。 「あの人があの人があの人が」 許せるわけがなかった。お墓も立てられないあの子の歳を数えて、あの子の代わりに日記を書いて、そう。 「ねえ」 私はふらりと立ち上がり医師に問いかける。 「あの子は、どこ?」
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医師は眉を下げて俯いた。 「あの子を…私の子を返してよ!」 「あいつは…?あいつはどこ!?あの男はどこよ!」 あいつはどこ?あいつはどこ? どんな顔だった? どんなやつだった? 医師が立ち上がった。 「…お医者さん。随分と背丈が高いのね」 「それはどうも」 「身長いくつですか?」 「186センチ」
- 完 -