屯所の廊下、見知った背中を見つけた。 「土方さん」 声をかけようとして、続く言葉を考えていないことに気づき、口を噤んだ。結局、俺とあの人の間に今さら話すことなど何もないと、黙って見送った。 そんなことをいちいち考えなければならなくなったのは、一体いつからだろう。 いつから、俺とあの人は、こんなにも離れてしまったのだろう。 「総司。またこんなとこで油売ってやがったのか」 「土方さん」
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「油を売っていたなんて、そんな。しかし油を売るとは妙な表現ですね。油を売る仕事をしているのに、サボっている意味なんて」 言葉の端を捕まえて、軽口を叩いてみる。 「バカ、お前は本当に世間知らずだな、総司。油売りの油の売り方を知らねぇか」 「知りませんよ」 答えながら振り向いた土方さんは、今日も血のにおいがした。 また誰か斬ったのだろう。何度よけ方を教えてもいつも血塗れで、隊内では獣だと言われている。
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「いったい、誰を切ったんですか?」 と何時もの軽い口調で聞くと、土方さんも平時と変わらぬように 「長州藩士だ…、多分。」と答えた。 「なんですか、その曖昧な返事わ。」 と笑ってやると、土方さんもまた困ったように笑った。 「最近は長者がうようよ、京の街に溢れてるからな。」 「なんでも、朝廷を動かしているのも奴らだそうで。」 「桂小五郎…とか言う奴が京都に入ったらしい。」
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「ああ」 桂のことなら知っている。あの長州藩士の剣の達人。江戸に修行に行って塾頭になったらしい。これも風の噂だ。 「手合わせ願いてえな」 「また野蛮な戦い方をするのでしょう」 「お行儀の良い剣術をぶっ倒すのが良いんだよ」 お前もやってみろ、総司。 金蹴り目潰しがないのは戦いじゃないとかいうのが土方さんのモットーだ。それでもそういう戦いはして欲しくないな、そう思うのだ。
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なぜなら、土方さんは剣の筋がよく通っているから。 近藤さんの太刀がまっすぐなのに対し、土方さんの太刀は予測できない。けれども、試合で近藤さんに振り下ろす時の切っ先は真っ当で、鋭利な風きり音がすさまじい。人の意表を突くのが得意な分、乱れると歯止めが利かない。 「人を切るのに綺麗もあるかよ」 野蛮な戦い方をしていても、土方さんの剣捌きはやはりどこか人を魅せる瞬間がある。 「桂がでたぞ!」
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池田屋。 そこで会合が行われるだろうことは、事前に土方さんによって予測されていた。そこに桂が姿を現したというのだ。 一気に緊張が走る。 後から手勢を整えて行く、という土方さんの声を背に、俺は近藤さんの後について屯所を飛び出した。 嫌な予感が胸にもやもやとせり上がってくる。それでも、もう後戻りは出来ない。 亥の刻。暗闇の中でどんなに走っても、鼻の奥に染み付いた土方さんの血のにおいが離れない。
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上段から袈裟懸け、二歩下がって逆袈裟。お国訛りの残る浪士は、血を吹いて、どう、と斃れた。闇に慣れた目で味方を探れば、行け、と、視線だけで合図が送られる。無論、先を譲るつもりはない。斬り込みは己が役目だと、俺は自負している。 「御用改めである! 神妙にせい!」 商人たちは、鋭い怒号に泡を喰って散り散りになる。市井の者に手を掛けては新選組の名に傷がつくから、害を成さない限り捨て置いていい。
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所詮人斬りは人斬り、人殺しであって他ではない。 分かっていて、でも続ける。 気づいていて、でも辞めない。 善と信じ、悪を斬る。 辛いことだと、知ってるはずなのに。 敵を斬ったことは、もう数えるのを辞めた。 仲間がやられたことも、数えきれない。 復讐の怒りに任せ、斬りに斬った時もある。 復讐が復讐をうむなんて、わかってんだ。 でも、土方さん。あんたは言ったよな。 強さが正義だ。
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強さを求めて走るのに、京という街は冷たかった。──壬生狼。 それは元々は鴨一派が発端だったが、植えつけた感情は【白】には戻らなかった。 桜の季節に花見で笑い、酔って。月見も酒のアテ。楽しかったのに、楽しいまま時間は終わらなかった。 「生き急いでしまへんか?」 君菊の声が耳を掠めた。 どうやらいつの間にか、起きたまま寝たらしい。 「さあな」 行灯を揺らす風にこの先を描き、武士として走るのだ。
- 完 -