呼吸の染み

気がつくと私は森の中で倒れていた。 何故ここにいるのか、今までなにをしていたか、なにもかも思い出せない。 まだ夜明け前ほどの薄暗い森の中、私は顔や衣服にこびりついた泥をはたき落とした。 あたりを見回す。 なにもない。動物の気配すらない。 風が木の葉を揺らす音と、私の心臓の鼓動だけが聞こえていた。 ふと、ズボンのポケットに、携帯電話が入っていることに気がついた。

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電源は入るのだろうか。とりあえずつけてみよう。 ピカッ あっ、ついた。画面が白く光って辺りが少し見えてきた。と言っても、やはり何もない。虫喰いの跡がついてる葉っぱだとか、それくらいしか落ちていない。 何かヒントとなるものがあればよかったんだけど。 はて、どうしたものかと溜息をつこうとした瞬間。けたたましい着信音が森中に響き渡る。 あ、電波入ってるんだ。

kako

13年前

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「うるせぇ!静かにしろや。」 突然鳴り響いた携帯の着信で、俺は夢の中から引きずりだされた。 「ちっ。今日は中止だ。」 俺は仕事疲れを癒すため、静かな森の中でテント生活をしていた。一見、妙な事だと思うかもしれないが、俺自身は満足していた。 それなのに、けたたましく邪魔が入った。 「原因は何なんだ?ちくしょう!」 俺は周囲を見回した。すると、1人の女がうずくまっていた。

hamadera

13年前

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「おい」 「……」 女はうずくまったまま、返事がない。 死ん…ではいないようだ。 「ふん、まあいい」 興味もない、戻るとするか。 ザッザッ… 足音がだんだん遠くなっていく。 私はそっと、目を開けた。 「…今のなに⁈」 私を覗き込んでいたのは、明らかに、人間とは違う、別の生き物だった。恐怖で身体が震えた。 そういえば。ああ、あった、携帯電話。 握った途端、再び着信音が鳴った。

BLANC

13年前

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瞬間的に通話ボタンを押す。音がまたあの化物を引き寄せないように。 『ユミ?』 その声を聞いて全て思い出した。通話の相手は親友のヨウコ。失恋して、ヨウコと二人で丘の公園でヤケ酒飲んでて、それで私たち……誤って落ちたんだ。この森に。 樹々がクッションになったのか、体は無事だった。ヨウコの声も無事そう。でも… 「ヨウコ、逃げて」 必死に言う。森に変な噂はあったけどまさか本当にいるとは… 「化物が」

Pachakasha

12年前

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その言葉を聞いた途端、脳裏に先ほど感じたあの気配を思い出す。 苛立ちと警戒心を露わにした、攻撃的な息づかい。 姿を目にしなかったが、あれがユミの言う「化物」なのだろうか。 「ヨウコ!?聞こえてる?」 「あ、うん…。ユミ、今どこにいるの?」 「わからない、暗いし似た景色だし…」 ユミは今にも泣き出しそうだ。 ジッとしているのも歩き回るのも怖い。 ユミは実際に化物を見たと言うのだから尚更だろう。

12年前

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「安心していいよ、ユミ。今のところ、大丈夫そうだし」 「よかった、よかったよ」 私は茂みの中を歩いた。例のナニカの気配に見つからないよう、足を忍ばせた。 「通話切っちゃだめだよ? 歩ける?」 「うん。ヨウコ、私足怪我したみたいで歩けない。今倒れてる」 「わかった、わかった。ユミ見つけて、助けを呼ぶから待ってて」 「うん。うん。早く。早く。私怖くて、怖くてーー」 そこで通話が切れた。 ユミ? ユミ?

aoto

12年前

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背後で、葉の擦れる音がした。 違う。 携帯電話を握りしめた手が震えていた。ぶるぶると、マナーモードの着信を告げるみたいに。 ユミじゃない。私だ。 風の音ではなかった。葉の音は確かにそいつがやってくるBGMだった。 粗暴な息遣いが聞こえる。 どうして。 全身が総毛立つ。耳鳴りがする。嫌な汗が滑り落ちる。なぜだか怒りがふつふつと湧く。 どうして私なの。失恋するのも、怖い目に遭うのも。

sir-spring

12年前

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手にした携帯電話を強く握り締める。怒りで体中が熱くなって、でも頭だけは変に冷たかった。 黙ってなんて、殺されてあげない。 粗暴な息遣いはすぐそこまで迫っていた。がさり、音と共に現れた影に私は肩を当てた。ぐらりとバランスを崩した影がよろめいた先には鋭く尖った木の枝があった。 「ぎゃ」 短い悲鳴とともに赤い血が流れる。私は愕然とした。ユミ…? 呆気に取られた私の背後で荒い息遣いが聞こえた。

月野 麻

11年前

- 完 -