七月四日 海岸線を歩く。 きつい檸檬色の日は少し綻んで光の道を作る テトラポットの下でごぽごぽと渦巻く音がそれほど神経に障らない 自転車をひいた老人がこちらを訝しそうにしながら通り過ぎる ずうっとここに座っていたい。浜へおりる階段に腰掛けたまま、うとうとした。
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波の音は、子守唄を超える睡眠薬だった。 うとうとはしていたが、僅かな柄に気配は感じた。あの老人が私の隣りに座った時も、薄々記憶はあったが、老人を構うことよりも睡眠を優先した。 目が冷めると、朝日が広大な海と、老人の頭を照らしていた。 「まだいたんですね」と私が言った。 老人は太陽を見ながら、「今日も地球はまわっているよお嬢さん」 私と老人、そして、会話が見事に噛み合っていなかった。
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はあ、私は口を開いた。 「地球、いいですよね。朝日が見られるのも、地球が頑張って回ってくれているからなんですよね」 老人は何も言わなかった。空白を埋めようと、私は言葉を継ぎ足した。 「地球は回る。朝がくる。私を置いて、誰かを残して。そういう言葉あるじゃないですか。私嫌いです。前に進むしかないよね。地球の上にいるんだから、一緒に回んないといけないよねって」 「朝日は気持ちいい」 うん。噛み合わない。
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「朝日が一番気持ちいい」 老人の声はさざなみたちの声に紛れる。その身に受けた朝の日差しを粉々に砕いて、数多のきらめきを浮かべる水面が今日も穏やかに波打っている。 「でも、夕焼けもいいですよね。まるで永遠の別れみたいで」 海面に、まるで道のように朝日が映り込んでいる。 「地球は回ってなんかないさ」 水平線より遠くを見つめて、老人はささやく。 波を追いかけているみたいに、やっぱり会話がとんちんかんだ。
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「回っていてもいなくても、こうして朝はきますよね」 奇妙な時間だ。とはいえ太陽は少しずつ高くなっているから、私たちが時に取り残されたわけではないのだろう。 老人との会話は、たとえ噛み合わなくても一定のリズムを保つことが大事だと聞いた覚えがある。 波の動きのように、鳥の囀りのように。相手の呼吸に合わせて。 「朝日は少し眩しすぎる」 「日を浴びれば冬に風邪を引きませんよ」 言ったら返す。それが肝要だ。
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「地球を回しているのは誰だと思うね」 老人は朝日に煌めく水面を見つめたまま呟くように問い掛ける。話し相手は私なのか、海なのか。それでも私は答えてみる。 「もしかして、お爺さん?」 「その通りだよ、お嬢さん」 そう言って老人は私に笑顔を向けた。初めて会話が噛み合って嬉しくなる。内容はとんちんかんなままだけど。 「わしが回して、あんたが回す。けれど、ここでこうして座ってちゃ、いつまでも朝日が眩しい」
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「地球は回されながら、太陽の周りを回る。だから夏がきて、そのうち秋になり冬になる。目が回りそうですね。」 そう呟きながら老人のひいてきた自転車を見つめる。日の光を浴びたベルが一瞬、宝石の様に見えた。 「肝心なのは」老人も自転車を見つめる。 「時間に囚われ過ぎない事だ。地球が一周すれば1日、なんて人が考えた事だ。」 「でも私達も人だから、それに従うべきです。」 大丈夫、リズムは一定に保たれている。
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「わしが回した太陽がこうして出迎えてくれる。それだけで幸せだ」 一定のリズムを保って知らない老人と噛み合わない会話を繰り返す。そのことに私は心地良さを感じていた。 テトラポットに打ち付けられる波は穏やかで、今日の朝はまるで地球の始まりのようだ。 「ああ、居たな親父」 ふいに背後から男性の声。振り返れば中年の男が立っていた。 「またここか」 「好きなんでな」 老人はその男性と会話を噛み合わせた。
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「親父、帰るぞ」 「ん」 老人は小さく返事をして立ち上がった。 そして、静かに私の方を向いた。 「お嬢さん、人生は長い。」 老人は穏やかな目で私を見つめていた。 「だがな、宇宙からすればほんの一瞬なんだよ。」 深い響きだった。 私ははっとした。 そして気付いた時、老人とその息子は背を向けて歩き出していた。 私は、遠くなっていく2つの背中に深くお辞儀をした。 太陽が眩しかった。
- 完 -