ゆめから得たもの

ひっくり返った車のライトに蛾が寄ってくる。 木に寄りかかって座っている男は左腕が異様に曲がり、右手では胸を押さえ、鉄の匂いのする空気を必死に吸っていた。 携帯も壊れた。 あとは神に祈るだけ。 どうか、どうか俺を最初に見つけるのが熊じゃなくて人でありますように、と。

木箱

7年前

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ガササッ!…と茂みを揺らし、それは頭を出した。 「…。」 「…。」 熊だ。完全に目があった。 神への祈りは死神の方に通じたらしい。 もう悲惨過ぎて、叫び声も出な─ 「うわぁあああああ!!!」 …言っておくが、俺の叫び声じゃない。 熊だ。熊が「うわー」って言ったんだ。へー。熊って「うわー」って言えるんだ。 「めっちゃ怪我してるし!人間!!」 どうも… 曲がったのは腕だけじゃないらしい。

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「驚かすなや、めっちゃ恥ずい声出してもうたわ。だいぶ久しぶりの人間、緊張するー。え、ちょっと待って。腕の曲がり方おかしない?キモッ!」 興奮しながらも俺をまじまじと観察し、熊は徐々に落ち着きを取り戻していく。 「自分、死にかけてるやん。血生臭いの苦手やのに。でも、見てもうたしなあ」 ちょっと待っとき、と熊は森の暗闇へと消えた。終始理解が追いつかないまま、死の静寂と再会する。血が喉に絡む。

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「ほら、腕貸してみぃ。大丈夫やって、取って喰うたりはせえへんから!」 唐突に戻ってきた熊は、細い枝を俺の折れた腕の添え木にし、ボロ布を巻いて固定した。開いていた傷には、何か苦い匂いの葉っぱで血止めがされたようだ。 「車は大破しとるからしゃーないとして、とりあえず国道まで送るから。あとは自力で何とかせぇよ」 自分の2倍ほどの体格の熊に軽々と背負われて山を下る。獣臭い背中はほんのり温かかった。

6年前

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「ず…ずいま…ぜん…」 俺は出せるだけの声で熊にお礼を言った。 「無理して声出さんと。傷口に響くで」 「…」 と、熊は無数の星達が照らす森を抜けながら、俺に囁いた。 「…ウチらかて、ホンマは人間なんぞ襲いとう無いんや。しかしな、最近じゃ宅地造成や言うて人間が勝手に山削りよるから、里との境が無くなってもうて、結局山に住んどる動物は、仕方なく人間の領域に行って食糧を探さなあかん様になったんや」

hyper

6年前

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思えば、俺は目先の利益以外何も考えず、自分勝手な行動ばかりしていた気がする。そんな自分が恥ずかしい。 そんな事を思っていると国道に着いた。 目の前には、こんな深夜にも関わらず人影が。 「おい、熊吉じゃねぇか!どうしたんだよそいつ?」 「徹三はん!丁度ええ、この兄ちゃんを病院に連れてってくれへんか?あ、その前に俺の体毛落として欲しいんや。熊に担がれてここまで来たなんて信じて貰えへんやろうしな」

Dr.K

5年前

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「分かった。それにしても、大怪我じゃねぇか?」 「俺が襲ったんじゃねぇよ。旧道の外れの三笠の大木のとこで事故ってたんだ。乗ってた車はそこにあるから後で撤去するよう手配してくれるとありがたい」 「もちろん、そうするよ。心配はいらねぇ。それにしてもそんなとこで何してたんだか?」 「それについちゃあ何も訊いてない。事故現場には他の車も他の怪我人もいなかったから、旧道の上の道路から落ちたのかもしれん」

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俺は救急車の中で応急処置を受けながら「あの熊、なんで日本語喋れんだろう」とか「なんでこの地元の人間らしき人と親しげなんだろう」とぼんやり考えていた──。 あの不思議な出来事は、俺にひとつの教訓をもたらした。 自分の利益だけでなく、他人のことも思いやること。自分にとって不利益でも、人に優しくあろうとする心。 晩年になった今でも、時々思い出す。あの変な方言を。温かな毛むくじゃらの背中を。

小麦

5年前

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あれは夢だったんじゃないかと考えるときがある。僕はそれでも構わないと思っている。あれがきっかけで僕は変わった。変わることができた。それで手に入れたものは大きい。 真の友情。 協力し、助け合う仲間。 温かい家庭。 全て彼のおかげで得たものだと言っていい。 人は簡単には変われない。だけどもし人が変わることがあるとしたら、それは些細なできごとによるものかもしれない。これが僕のみんなに捧げる教訓だ。

ma018♪

5年前

- 完 -