華のお江戸に、花散らしの嵐が吹いている。 月夜の晩になると吹くと云う其の嵐は、夜に誘われ街を歩く人の首を、得物で以って一刀両断。 女も、男も、老いも若きも。 其れに狙われたら、其の命の華を散らされて、首と体を切り離された無残な姿を晒すと云う。 其の嵐は、人の首を落とすと云うその手腕から、こう呼ばれて居る。 『椿狩り』 華の名前を冠する花散らし。今日も其の噂は江戸中を騒がせていた。
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「椿狩りが出たらしいぜ」 「なんだ、またか。今月に入って何件目だ?」 「さあねえ、多すぎて数えちゃいねえが、ざっと五件六件ってとこかい」 「嫌な世の中になったもんだなあ、全くよう」 ──こんな会話が江戸の町のそこかしこで聞こえてくる。とある町娘のお葉は、物騒なその噂に顔を俯け、手元に抱えた花に視線を落とした。 椿の花。 人斬りの名前に付されてしまった可哀想な花。お葉はこの花が好きだった。
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「見事な椿だねぇ」 視線を落としていたお葉は、すぐ正面まで近づいてきた人物の声に心臓が飛び出るほど驚いた。慌てて上げた視線の先に、もっと驚かされた。 「お嬢さん、どちらでそれを?」 にっこりと微笑むその若い男の顔は、お葉がこれまで見たどんな人よりも美しかった。 すっと通った鼻筋に、うすく上品な唇。白くて滑らかな肌と、えら張りも顎尖りもない美しい輪郭。切れ長で凛とした目元には、色香を放つ泣きぼくろ。
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「これは、そ、そこの往来でいただきました」 お葉はそう答えるだけで精一杯だった。 「そこの」 男がお葉の向こう側に目を遣ると、往来の少し奥の屋敷、遠くからでもすぐわかる程に紅が広がっていた。 「あそこは何のお屋敷かな?」 「剣の道場みたいです。あの…」 恥ずかしさで顔が真っ赤になったお葉は思わずその場を走り去ってしまった。 「…まるで椿の様じゃないか」 男はお葉が落とした椿を拾い、笑みを浮かべた。
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それは、雲を掻き分け、月が江戸を眼下にする夜の事で… ボトトッ! 町屋の軒下に生首が三つ転がった。 直立不動の胴体からは三本の血柱が。 おぞましい夜の嵐が吹き抜けたのだ。 狩られた椿達の横たわる側には、行燈が揺れているだけで。 いや、通りの角に震える少女がいる様だ。 少女が、腰を抜かしへたり込む目線の先には、小川を流れゆく一輪の椿があった… あの、椿… 翌日の瓦版に三輪の椿が舞う。
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市井の岡っ引きである佐八は剣道場を訪れていた。江戸を賑わせる「椿狩り」の正体を今度こそ突き止めなければならない、と意気込んでいた。 何せ奴は、昨夜だけでも、三人の命を奪ったのである。連日の事件と合わせても、犠牲者の数はあまりに増えすぎた。 椿狩りについての情報は今まで皆無だったが、初めて目撃者を名乗る者が現れた。 待合いの間、剣道場の側の椿を見て、佐八は奇妙な違和感を覚えていた。
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目撃者は、お葉という娘だった。 娘は、椿狩りの顔は見なかった。けれど一陣の風のように人影が去った後、椿の花を目にとめたのだという。 花はこの道場のものだと彼女は語った。 以前、貰ったことがあるのだと。あんな見事な紅色は他にないと。 椿の花など何処にでもある。あまりに曖昧な話だが、他に手がかりもない。 そこでこうして訪ねてきたわけであるが。 それにしても、なぜ椿狩りは娘を襲わなかったのか。
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佐八の思考を断つように道場の戸が開く。師範と思しき男が手ずから茶を運んできたのだ。 その顔を見てお葉はあっと声をあげた。いつぞや、往来で会った男だった。 「先立っては意地悪を言ってすまなかったね。私はこの道場の師範だ。あの日はお嬢さんの椿がここのものかを確かめたくて、つい恍けたことを尋ねてしまった」 涼やかに男は笑う。 「私も椿が好きだ。ここの椿には特別に手をかけてある。斯程に美しい椿は他にない」
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なるほど道場の椿は素人目にも美しい。すると椿狩りは余程椿を好むのか、それとも道場の者なのか。何にせよ目ぼしい情報は手に入った。佐八は早々に切り上げて黄昏時の江戸へ娘を送りに踏み出した。 道中、橋に差し掛かった時。お葉はふと隣に嫌な音を聞いた。欄干から覗く水に血のような椿が一輪流れていく。 「あなたは襲うまい」 囁かれた低い声音には聞き覚えがある。振り返れば、佐八の無残な紅の上に件の椿が落ちていた。
- 完 -