愛の約束

春の柔らかい海辺。 ほんのりと暖かい結晶の粒々、ゆるい弧を描く砂浜。 うまずたゆまず海に揉まれて、丸く透き通った石ころ。 秘密の薬草を育てながら、この海辺で私は英気を養う。 私の中の深い魔法の力を、ゆっくりとはぐくむ。 薬草のスープをかき混ぜながら、海の匂いを感じる。 魔法の力は、爽やかな風と、潮の香りと、孤独の中で養われる。

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あたたかな春の木漏れ日。 頬を撫でる海風は、私だけのものなのだ。もう、何年も。気の遠くなるほど昔から。 真鍮の大鍋の中へ、隠し味をひと匙。魔法の力は人間を愛せば消えてしまう。 かつてこの島に居た、私の仲間たちがそうであったように。魔女の永遠の命を捨て、普通の女に成った友人たち。 木の椀に注いだスープは、少し塩辛い。そう言えばもう長らく言の葉を紡いでいない。 今日も砂浜に、足跡はひとつきり。

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園から草木の芽吹きが聞こえる春。 懐かしいような、少しだけ侘しいような。 薬草たちも採取の頃合いだろうか。 月の満ちるときに花と葉と果実を、月の欠けるときに根を採ろう。 レモングラスにマロウブルー、ベルベーヌをブレンドしたハーブティーを食後に入れる。 騒がしく思われた部屋も、今では静寂が支配する。 損なわれた魔力をよしとは思わないけれども、代わりに愛を得た彼女らが羨ましくも思える。

aoto

9年前

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風を読み、小鳥と語る。 世間を知るにはそれだけで十分。 私はこの世界を愛している。けれど、彼女らの言う愛と私のそれにどんな隔たりがあるというのだろう。 それを知る機会がこれまでになかったわけではない。 私は縫いかけのテーブルクロスを手に取った。 縫い目を確認し、安楽椅子に座り直す。 あともう少しで完成だ。 ひと針ごとに呪いをこめ、丁寧に縫っていく。

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ただ、それだけ。海辺の岬に魔女が住んでいる事を知る者はいないから、英知を頼りにくる者もいない。 魔女は今日も一人で相手のいない呪いを縫う。 けれども。 ふと針を波打つ手を止める。テーブルクロスを縫い始めた頃にはいたのだ。どこの誰かなんてとうに忘れるほど昔の話だけれど、その時は一縫い一縫いを愛おしく感じていたような何かが残っている。 頭を振る。そんな事はどうでもいい。さて、縫わなくては。

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無心で針を動かす窓辺に、海鳥が囀る。 薬草の爽風と、心地よい潮風と、孤独。それらに晒され続けた魔力は極みまで高まって、今や何でも出来る筈。 それでも私は多くを求めず、此処で何かを、──待っている? 針を、止めず動かせ。 その言葉こそ、私が私にかけた魔法ではなかっただろうか? あるいは、呪いか。 窓辺の鳥たちが、一斉に飛び立つ。 自問する魔女の頬をふと、薬草でも潮でもない香を乗せた風が、撫でた。

7年前

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妖精めいた少女が佇んでいた。 怒涛の様におし寄せる感情の奔流に襲われる。 何処か懐かしい様な、胸が締めつけられる様な、切なく狂おしく愛おしい。 この気持ちは何だろう? 胸が高鳴るなんて、いつ以来だろう? 少女が視線に気付き、キラキラした瞳で魔女を見つめる。 「初めまして、魔女さん。約束どおり会いにきたわ。とっても長い長い間、待たせてしまったわね。でも、私ちゃんと来たでしょう?」

えす

7年前

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へ、 久しぶりに出た掠れた声は、潮風に吹かれて消えた。 懐かしいような、けれど、会ったことなど無い。 本人もそう言っている。では、約束とは? この、 孤独なちっぽけの魔女のことを知っているとは、いったい何事だろうか。 少女は相手が自分のことを分からないと、まるで悟っていたかのように。 妖艶に、しかし、日光のように、 ニッコリと笑う。 「私、ソニの子供です。秘密の薬の作り方、教えて下さいな。」

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ソニ…その名前で忘れていた記憶が蘇る。 優しくて厳しかった人、私を育ててくれた人、そして、私を置いてここを出て行った人。 「私が母とした約束はね、貴方にこの事実を伝えること」 戸惑う魔女の手を取り、少女は言った。 「貴方はソニに愛されてた」 その一言で私は全てを悟った。 両手で顔を覆い崩れ落ちる。その肩を彼女は抱き寄せ小さくつぶやいた。 「母さん、忘れ薬の作り方なんて教わる必要はなかったわ」

ななし

7年前

- 完 -