少女は魔法が使えなかった。 魔法使いが住むこの世界で、少女は孤独だった。 少女は世界の中心にある塔に隠れ、大きな鐘をついていた。魔法では動かせないその鐘を、助けてと叫ぶように。 世界中に響く鐘の音に、人々は感謝していた。でもその鐘を鳴らす少女のことを知る者はいなかった。 朝起きて掃除をし、甘い紅茶と共に世界を眺め、決まった時間に鐘をつく、その繰り返し。 そんな毎日に、変化は突然訪れる。
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「ーー驚いた。この鐘は君が鳴らしているのかい?」 ある日なんの前触れもなく、鐘楼の入口から、緑色のケープを羽織ったいかにも旅人といった風体の青年が顔を覗かせた。 「驚かせてごめんよ。僕は誰が鐘の音を鳴らしているのか知りたくて、世界の端からここまで来たんだ」 穏やかに笑う青年は、自分を警戒する少女を怯えさせまいと少しの距離を保ったまま、床に座り込む。 「話をしよう。僕はアーテル。見ての通り、旅人さ」
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私の名前は、と言いかけて、少女は口を閉じた。名乗り返すのが礼儀であることくらいは知っていた。けれど、その名を口にすることは躊躇ってしまう。なぜなら、少女の名前は"魔力がない"ことを意味する言葉だったからだ。 せっかく訪ねてきてくれた客人であっても、魔法を使えないと知ったなら、自分のことを嫌うだろう、と少女は考えた。 「君は話すことができないの?」 アーテルに縋りたくて、少女は思わず頷いてしまった。
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「それじゃあ仕方ないな」アーテルはパンをちぎり、こちらへよこした。「僕はさ、アトンっていう小さな村から来たんだ‥‥」 アーテルの口から生まれる世界は鮮やかなもので、少女は釘付けになった。 「‥‥‥と言うわけさ。」彼の世界と私の世界が重なった時、もう陽は落ちていた。 しまった。 鐘を鳴らし忘れた。 少女が気がついた時には もう手遅れだった。 世界の歯車は狂い、 人々は不自然な夜を過ごした。
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鐘の音が聞こえないまま夜を迎えた世界は、誰も夜が認識できずに眠らない夜になってしまった。 少女は頭の中でまずい、まずい、っと繰り返す。アーテルも鐘の時間が過ぎていることに気がつき顔を青くした。 「すまない、僕が余計な話をしたばっかりに……」 アーテルは謝るが、時間を忘れた自分が悪いと言うかのように少女は首を横に振った。 ただ、まさか自分の鐘一つでこうも世界が不自然になるとは少女も思わなかった。
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「それだけ君は世界中の人々の助けになってるんだよ。僕も含めてね」 と言うと、アーテルはおもむろに空に手をかざす。すると、月と星が逆方向に動き出し、混乱していたざわめきは静かになった。 少女は呆気にとられてアーテルを見る。 「お詫びに時間を戻したよ。僕は時間を動かす魔法が得意なんだ」 あまり多用出来ないけどね、と戯ける彼に、少女は礼を込めて頭を下げ、鐘を鳴らした。
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「でも、君の魔法は本当に凄いね」 アーテルの言葉に少女は混乱した。 何を言っているのだろう? 私が魔法を使えるわけがないのに。 「君の奏でる音はいつも皆のそばにある。こんな優しい魔法、僕は見たことがないよ。世界中を旅したけど君の音を知らない人はいなかった」 皆、君の音を愛していたよ。 気がつくと、少女の目から涙が零れていた。 一人じゃなかった。 私は、ひとりぼっちじゃなかったんだ。
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私だけが世界からつまはじきにされていると思ってた。忌まわしい名前を恨んだときもあった。 ォォォンと、まだ小さく空気を震わす鐘の下から街を見ると、人々が作業の手を止め、塔を仰ぎ見ていた。今日も仕事が終わったねぇ、と笑顔で言葉を交わしている人、ご飯だから帰らないと、と家へ走ってゆく子どもたち… 「これが、私の魔法…」 振り向くと、微笑むアーテルが、夕日に照らされていた。 「君、話せるじゃないか」
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もう、怖いことなんて、何も無い。 「…今まで話せなくて、ごめんね。私の名前は…ムーサ。魔法が使えるとしたら、そうね、みんなに音を運んでいるの」 塔を見上げる人々、その先の橙色に染まる街、そしてアーテルの故郷、アトンまで───。 少女の魔法を合図に、家庭には明かりが灯り始めた。 「ムーサ、君は素敵な魔法使いだね。この塔から見えるたくさんの明かりの数だけ、君はみんなに愛されているんだから」
- 完 -