朧月の刀身

柳井家は暗殺一族である。 だが、次期当主である長男の隆臣は、心優しく繊細な、俗にいう草食系男子であった。 時に人は、血統や伝統など完全に無視した性質を持って生まれる。 父である隆正は、そんな息子に今日も頭を痛めていた。 「私がお前の年の頃は、某国の密偵を三人屠った」 「ぼ、僕は今日、蚊を三匹倒しました」 十六歳にもなるのに、この体たらく。 「隆臣。お前は蚊取線香ではない。暗殺者なのだ」

さはら

12年前

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「左様なことを申したところで兄上には暖簾に腕押しというものでしょう」 そう笑ったのは妹のしず十四歳である。 「お前が男であればのう」 隆正は嘆息した。 しずは兄とは違い柳井の血を濃く受け継いでおりくノ一として類稀なる才能を見せていた。しかし当主は男子でなければならない。 「隆臣、お前には薩摩に行ってもらう そこで仕事をするのだ」 父の言葉に隆臣は仰け反った。 薩摩に行って帰った者はまだないのだ。

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薩摩には倒幕を謀る不届き者が犇いている。しかも幕府は国力の強い薩摩に直接手を下すことが出来ない。そこで柳井ら暗殺者の出番となるのだが、良くて刺し違え。悪ければ……想像するまでもない。しかも此度の任は筆頭家老の暗殺だというのだから、隆臣にとっては荷が重い。 死地へ向け夜の街道を歩く隆臣に、姿の見えぬ妹が囁く。 「兄上、いざとなれば私が手を下します」 「妹よ。お前は暗殺者ではない。ただの小娘だのに」

lalalacco

12年前

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「しかし、兄上独りでは…」 「二度は言わぬぞ。」 頑迷な隆臣に気圧され、声を殺したしずであったが、何とも得心がいかず、飛礫の届く距離を保ち追従した。 このまま隆臣独りを向かわせれば、薩摩で死するは明白。さりとて、いずれは柳井の家督を継ぐ男である。しずは、危急の時は己が身代わりにと、心に秘めていた。 街道を照らす朧月がまどろみ、宵を深める。 隆臣は関所を眼前にそえ、薩摩郷士の出で立ちに化けた。

aprico

12年前

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今迄の体たらくな隆臣からは考えられない程の鋭い眼光と、それに反して全く感じられない殺気に、しずは不思議と寒気を感じた。 街道が一瞬、闇に包まれた。 そして、再び朧月が道を照らした時、しずは目を丸くした。 そこには街道に横たわる薩摩郷士。 何と隆臣は殺気はおろか、剣閃すら感じずに一瞬で数人を殺害していたのだ。 (信じられない…。これがあの兄上…⁉︎) しずはその兄の姿に、初めて身体が固まった。

hyper

11年前

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隆臣は泣いていた、柳井家宝刀村雨の刀身が青白く乱反射しながら紅い血が哀しく滴り落ちている。 「しず…これから世は荒れる、だが生きろ」 しずが固まっている間に、隆臣はそう言い残し消えた… 兄様がわからない… しずは薩摩に身を隠し、隆臣の足跡を探している、そんな時に風の噂話を小耳に挟んだ。 幕府の懐刀柳井家消滅す…。 しずの胸騒ぎは的中した、何かが起ころうとしている、しずは柳井家邸宅へと跳び駆け出す。

唐草

11年前

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やっとのことで着いた柳井家邸宅は、異様なまでの静寂に包まれていた。そして、微かな血の臭い。訓練を受けた者でないとわからない、本当に微かなモノだった。嫌な予感が、どんどん風船の様に膨らんでいく。 血の臭いを辿り、辿り着いた先には父と母がいた。 だが、2人とも首から紅い花を咲かせ、ただの肉塊へとなっていた。 そんな…父上が負けるような相手が… 不意に背後に人の気配を感じて、反射的に振り向く そこには

那柚汰

11年前

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「兄上…!」 「父は」 隆臣なのか一瞬わからなくなる程の姿だが血に濡れた髪の下に覗く目のおどついた弱い眼の光はまさしく兄だった。 「僕の本性を知っていた。だから薩摩に送って殺そうとしたのだろう」 兄は暗殺者としてはあまりにも危険過ぎたのだ。 出ない芽よりも成長し過ぎた草木が抜かれる様に兄もまた一族に抹消される。 その本性に兄自身もまた気付いてしまった。 「しず、生きろと言っただろう」

annon

11年前

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隆臣は村正より滴る血を袖で拭ったが、鞘に収めようとはしなかった。しずは懐刀で身構えた。勘が働いた、というより他になかった。 「僕は誰よりも僕が恐ろしい。刀を抜くと我を忘れる。暗殺と殺戮は違うのに。薩摩に下った僕が帯びた密命は柳井の暗殺者を始末することだ。しず、お前は暗殺者ではなく小娘だよ」 しずは隆臣の逃走を黙って見過ごすしかできなかった。 雲に溶けそうなほどの朧月。兄の行方をしずは知らない。

aoto

11年前

- 完 -