「あたしもやる!」 僕は小さなジョロに水を入れてハナに渡した。ハナはまずチュウリップに水をやる。 「あんまりやっちゃだめだよ」 「うん」 ハナは小さく返事をして他の鉢植えにもパラパラと水をかける。 「お兄ちゃん!葉っぱの水がコロコロしてるよ!」 ハナが楽しそうに言った。 「ほんとだね」 僕とハナは一緒に笑った。 あの頃のハナはいつも笑っていた。
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「おかえり ハナ」 「ただいま すぐに夕飯の支度するからね」 制服も着替えずエプロンをつけハナは台所に立つ。 あの事故以来ハナの生活は学校へ行く以外はすべて僕の世話に費やされている。 十年前、路上に飛び出したハナにトラックが迫っているのに気づいた僕は、彼女を何とか反対側に追い出した。代わりにトラックは僕の下半身を破壊した。 以来彼女は笑わなくなった。 僕を世話するためだけに生きている。
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ハナはきっと思っている。 (私のせいでお兄ちゃんの足をダメにした) あの時、僕はハナを助けた。 でも、本当に助けたかったのはおそらく自分自身だ。 疲れていたんだ。友人関係のいざこざや彼女との距離感、それになにより両親からの過度な期待に。 つまり、僕はハナを助けるという名目で自殺を図ったんだ。失敗したけど…… 卑怯な僕はそのことを誰にも伝えず、ハナを縛りつけている。 僕の心は歪んだままだ。
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休みの日、天気が良いとハナは僕の車椅子を押して散歩に出る。 「今日は何処まで行こう?」 「何処でもいいよ」 「じゃあ、河原まで」 ハナが散歩に選ぶ先はあまり人のいない処。できるだけ人に会いそうにない道を選ぶ。僕が人に会いたがらないのを知っているからだ。 「ここでいいよ。でこぼこだから押しにくいだろ」 「大丈夫。もう少し河の近くまで…」 その時、車椅子の車輪が大きな石に乗り上げて傾いた。
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「あ」 グリップはハナの手を滑り抜け、車椅子は派手にこけた。 僕には怪我もなく車椅子も異常はなかったが、ハナの動揺はかなりのものだった。 「っごめん、ごめんね。ごめん…」 気が付いたらハナの眼からポロポロと涙が零れ落ちていた。 「ハナ、大丈夫だから、ハナ?」 「ごめんね、お兄ちゃん…ごめんなさいっ」 僕は重い右腕でハナを撫でたがハナは泣き止まなかった。 帰るまでずっと。
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ハナを解放してやりたい。もう一度、ハナの笑顔を見たい—— 帰り道、僕は覚悟を決めて本当の事を打ち明けた。ハナを助けたのとは関係なく、死のうと思っていた事を。そんな無責任な考えで助けた僕に、縛られる事はないのだと。 「縛られてなんてない。お兄ちゃんこそ私に気を遣わないでよ。私たち家族なんだから」 そう言って、ハナはまた泣いた。 「お兄ちゃん、事故に遭ってから笑わなくなっちゃったじゃない」
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泣きながらハナはそんな事を言う。 「笑わなくなったのはハナの方だろ?…なんて、そんな事を言う資格ないな。…僕がハナの笑顔を奪ってしまったんだから」 「どうしてそんな事言うの?資格ってなんなの?家族に資格が要るの?…私はお兄ちゃんが笑わないから、笑わないんだよ…」 僕が笑わない…から? 「お兄ちゃん、お兄ちゃんが笑うとね、私も自然と笑顔になってるの。だから笑って?お兄ちゃんの笑顔が見たいよ」
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笑って欲しい、その想いは妹も同じだったのか。 「僕は……甘えてたんだな」 ハナに。自分に。 僕は甘えて不自由な運命と戦おうとしなかった。 ハナはただ首を振っていた。 「ごめんな、彼氏も作らないで俺の世話ばっかしてくれるのに」 「どうせ私モテないし」 そう言ってハナが笑った。 ハナが笑った! 僕もつられて笑って、二人で泣きながら笑った。 「お兄ちゃん」 「ん?」 「今も死にたいと思ってる?」
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「もう思ってないよ」 ハナを安心させたくて、僕はハナの手を強く握った。 ずっと前から僕は知っていた。ハナの秘められた恋を。 つい最近僕の主治医である青年医師から、ハナが大学を卒業したら結婚したい、だが両親が猛反対していると告白された。その理由が僕の存在にあることを隠し通そうとした彼だが嘘は苦手らしい。 その時僕は決心したんだ。 ハナ、嘘ついてごめんよ。 お前の笑顔は彼が守ってくれる。
- 完 -