ゆっくりじっくりゆらゆらり
挽きは中細。
煎りは中深やや深め。
奇はてらわずに。
お湯の温度は82、すこし冷めた頭で。酸味は弱め、すっと苦味とふぁっと甘味。難しくなく届くといい。
ファンタジーをネルに満たして、こころを優しくとぼとぼ落とす。ものがたり。
泡と香りを愉しんで、あせらず、じっくり、ねろり。
言葉を淹れるは楽しくて、共に囲うは嬉しくて、お口に合うなら幸いで。
砂糖とミルクはお好みで。
どうぞ、ごゆっくり。
- 1 -
「いらっしゃい。今日はいつもより遅い時間ですね」
学生時代から何度も通った喫茶店。
いつもは営業の途中に立ち寄るけれど、今日はのんびりと女主人と話がしたくなった。
「今日の気分は?」
女主人は、その日の気分で客にあった珈琲を淹れる。
「ひと段落ついてすこしほっとしてます。でもすこし疲れてるかもしれません」
女主人は「お疲れ様」と言いながら奥の部屋に豆を選びに行った。
- 2 -
女主人は目を薄く透かして、豆を選ぶ。疲れを解く風味を、身も心も緩める香味を。
丁寧に誠実に、手順を守って一杯に尽くせば、ふわりと湯気に文字が浮かび来るのが見える。
その人のためだけの、ことば。
魔法のように、占いのように、一滴、一言、一雫。青磁のカップに吸い込まれて、ゆらりゆらり。
「さぁ、どうぞ」
湛えた言葉の琥珀に、ミルクと砂糖を必要なだけ添えて。
女主人はそっと、その一杯を差し出した。
- 3 -
そっとカップを持ち上げる。温かく芳しい香りに包まれて、夢見心地の時間の始まりだ。
最初の一口は何も入れずに。豆本来の風味を楽しんで。
ほろりと苦く、解けた心に労いが沁みる。
それからミルクと砂糖を足して。甘やかな調和は、癒し、緩め、力をくれる。
僕のためだけの、趣。
僕のためだけの、ことば。
僕のためだけの、ものがたり。
「ありがとう」
思わず呟けば、湯気越しに女主人が微笑む。
- 4 -
珈琲は大人の飲み物だ。そう思って学生時代、初めてここを訪れた時は、失恋直後で。失恋と言っても告白さえしていない。憧れだった美術教師が結婚すると知った。それだけだったのだけれど、悔しくて、大人になってやる、と焦げた様な深い香りの源泉に乗り込んだ。
思えばその当時から、僕は年上女性に弱いらしい。
余計な会話は一切ないし、女主人の素性は全くと言って良いほど知らない。別に知らなくても構わない。
- 5 -
「必要な時に、必要な言葉をかけるのって難しいですね」
僕は思わずそんなことを口にしていた。
「どうしたんですか、急に」
「いや、特に何かあったってわけじゃないんですが…」
女主人に比べると、自分は言葉を選ぶのが下手だなと思う。
僕が上手く言葉を見つけられれば、あの時に友人を失わずに済んだかもしれない。恋人を失わずに済んだかもしれない。
取り留めもなく、そんな思いが浮かんでくる。
- 6 -
女主人は、目を伏せ気味にしながら、いつもと同じ微笑みで僕の話に耳を傾ける。もちろん、カップを拭く手は止めずに。
「言葉をかけなくたっていいんです」
ふっとカップから顔を上げる。
「黙って人の心に寄り添うことも、難しい」
僕は何も言わず、女主人の言葉とともにまた珈琲を喉の奥にゆっくりと一口。
「あなたはそれができる人だと思ってますよ、私は。
私だって言葉をかける代わりに珈琲を出してるんですから」
- 7 -
言葉の代わりに香りと風味を。
寄り添わずとも気持ちを込めた珈琲を差し出せば、香り立つ湯気があなたを包む。
歌うようにそう語らう女主人。
誰の言葉ですかと問いかければ、誰でしょう、と意地悪く笑った。
また一口珈琲を飲めば、甘くなったそれがじんわりと僕の心を満たす。
今日の珈琲はいつもより甘く感じるのは気のせいだろうか。僕が砂糖を入れ過ぎただけだろうか。
ゆらゆらゆらり、珈琲を揺らす。
- 8 -
漆塗りの柱時計に目をやると時刻はもう三時を過ぎていた。僕は鈍色の伝票ばさみを取ってゆっくり立ち上がる。
すると、女主人は前掛けで手を拭きながらレジの前に歩いてきた。
お釣りを渡す時、女主人の手が僕の手に軽く当たり彼女の顔に笑みが浮かぶ。僕は会釈を返して外へ出た。
空には一本の長い飛行機雲がたなびいていて、爽やかな風が吹き抜ける。
さあ、午後ももうひと頑張り。僕は伸びをすると喫茶店から歩き去った。
- 完 -
作品情報
ゆっくりじっくりゆらゆらり
#9839
- リレー期間
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3年8ヶ月