挽きは中細。 煎りは中深やや深め。 奇はてらわずに。 お湯の温度は82、すこし冷めた頭で。酸味は弱め、すっと苦味とふぁっと甘味。難しくなく届くといい。 ファンタジーをネルに満たして、こころを優しくとぼとぼ落とす。ものがたり。 泡と香りを愉しんで、あせらず、じっくり、ねろり。 言葉を淹れるは楽しくて、共に囲うは嬉しくて、お口に合うなら幸いで。 砂糖とミルクはお好みで。 どうぞ、ごゆっくり。
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「いらっしゃい。今日はいつもより遅い時間ですね」 学生時代から何度も通った喫茶店。 いつもは営業の途中に立ち寄るけれど、今日はのんびりと女主人と話がしたくなった。 「今日の気分は?」 女主人は、その日の気分で客にあった珈琲を淹れる。 「ひと段落ついてすこしほっとしてます。でもすこし疲れてるかもしれません」 女主人は「お疲れ様」と言いながら奥の部屋に豆を選びに行った。
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女主人は目を薄く透かして、豆を選ぶ。疲れを解く風味を、身も心も緩める香味を。 丁寧に誠実に、手順を守って一杯に尽くせば、ふわりと湯気に文字が浮かび来るのが見える。 その人のためだけの、ことば。 魔法のように、占いのように、一滴、一言、一雫。青磁のカップに吸い込まれて、ゆらりゆらり。 「さぁ、どうぞ」 湛えた言葉の琥珀に、ミルクと砂糖を必要なだけ添えて。 女主人はそっと、その一杯を差し出した。
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そっとカップを持ち上げる。温かく芳しい香りに包まれて、夢見心地の時間の始まりだ。 最初の一口は何も入れずに。豆本来の風味を楽しんで。 ほろりと苦く、解けた心に労いが沁みる。 それからミルクと砂糖を足して。甘やかな調和は、癒し、緩め、力をくれる。 僕のためだけの、趣。 僕のためだけの、ことば。 僕のためだけの、ものがたり。 「ありがとう」 思わず呟けば、湯気越しに女主人が微笑む。
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珈琲は大人の飲み物だ。そう思って学生時代、初めてここを訪れた時は、失恋直後で。失恋と言っても告白さえしていない。憧れだった美術教師が結婚すると知った。それだけだったのだけれど、悔しくて、大人になってやる、と焦げた様な深い香りの源泉に乗り込んだ。 思えばその当時から、僕は年上女性に弱いらしい。 余計な会話は一切ないし、女主人の素性は全くと言って良いほど知らない。別に知らなくても構わない。
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「必要な時に、必要な言葉をかけるのって難しいですね」 僕は思わずそんなことを口にしていた。 「どうしたんですか、急に」 「いや、特に何かあったってわけじゃないんですが…」 女主人に比べると、自分は言葉を選ぶのが下手だなと思う。 僕が上手く言葉を見つけられれば、あの時に友人を失わずに済んだかもしれない。恋人を失わずに済んだかもしれない。 取り留めもなく、そんな思いが浮かんでくる。
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女主人は、目を伏せ気味にしながら、いつもと同じ微笑みで僕の話に耳を傾ける。もちろん、カップを拭く手は止めずに。 「言葉をかけなくたっていいんです」 ふっとカップから顔を上げる。 「黙って人の心に寄り添うことも、難しい」 僕は何も言わず、女主人の言葉とともにまた珈琲を喉の奥にゆっくりと一口。 「あなたはそれができる人だと思ってますよ、私は。 私だって言葉をかける代わりに珈琲を出してるんですから」
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言葉の代わりに香りと風味を。 寄り添わずとも気持ちを込めた珈琲を差し出せば、香り立つ湯気があなたを包む。 歌うようにそう語らう女主人。 誰の言葉ですかと問いかければ、誰でしょう、と意地悪く笑った。 また一口珈琲を飲めば、甘くなったそれがじんわりと僕の心を満たす。 今日の珈琲はいつもより甘く感じるのは気のせいだろうか。僕が砂糖を入れ過ぎただけだろうか。 ゆらゆらゆらり、珈琲を揺らす。
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漆塗りの柱時計に目をやると時刻はもう三時を過ぎていた。僕は鈍色の伝票ばさみを取ってゆっくり立ち上がる。 すると、女主人は前掛けで手を拭きながらレジの前に歩いてきた。 お釣りを渡す時、女主人の手が僕の手に軽く当たり彼女の顔に笑みが浮かぶ。僕は会釈を返して外へ出た。 空には一本の長い飛行機雲がたなびいていて、爽やかな風が吹き抜ける。 さあ、午後ももうひと頑張り。僕は伸びをすると喫茶店から歩き去った。
- 完 -