豆大福殿、お越しあれ

飴色のドアを開け、軽やかなベルに迎えられて入った時から、視線を感じる。この珈琲店に来ると、いつもそうだ。僕はマスターに珈琲を頼んで、その視線の発生源を探した。 いた。 カウンターの隅の席。丸い背のない椅子いっぱいに、白地に黒斑の毛玉がどでんと鎮座ましましている。その容貌から、常連からは豆大福殿と呼ばれる毛玉が、金色の目でこちらをじっと見ていた。僕と目が合うと、くわ、と欠伸を一つ。ちょい、と手招く。

みかよ

12年前

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豆大福殿は応じない。つり上げた眼を絶えずこちらに向けながら、でっぷりとおわしている。 そこがよい。 珈琲をを口に運びながら眺めていると、時間がたつのも忘れてしまう。 最近仲間が増えましてね、マスターはにこやかに紹介してくれる。豆大福殿を一回り小さくした彼も、白地に黒斑の毛玉であった。 「豆豆大福殿と呼んでいるのですよ」 朱のお盆に乗せられている姿に、思わずマスターが憎いと思ってしまった。

aoto

11年前

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豆豆大福殿──この際豆殿と呼ぼう──は、豆大福殿と違って大層ご機嫌な御仁であった。僕が触れようと伸ばした手に、自らじゃれつく愛嬌。毛は柔らかく、一鳴きした声も甲高い。 そういえば、豆大福殿のお声は未だ拝聴したことがないな。 「豆殿と豆大福殿は、仲良くやれてるんですか?」 豆殿の魅力に悩殺されながら問うと、マスターは困ったように笑いながら言った。 「喧嘩は無いんですけどねぇ…。ただ、ちょっと」

11年前

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マスターがおもむろに、豆殿をヒョイと抱き抱えて豆大福殿の側へ降ろした。 するとさっきまで愛敬たっぷりに魅力を振りまいていた豆殿がカチンコチンに固まってしまったではないか。まるで氷の様に。 別に豆大福殿が威嚇した訳でもない。 いつもの様に金色の目でじっと見ては、くわ、と欠伸するだけだ。 「こんな調子なんですよ。先住猫に緊張でもしてるんですかねぇ?」とマスターが苦笑いしながら豆殿を朱の盆に戻した。

10年前

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盆に乗っても尚、豆殿の緊張は続いているようだった。背中を丸め、じりじりと後退りをする。まん丸毛玉は小さく震えてさえいた。 よほど豆大福殿が怖いらしい。マスターが気の毒そうに肩を竦める。豆大福殿だけが何所吹く風といった態で、守護神よろしく店内を見遣っていた。 それでも豆殿は、すぐに店の人気者になった。じゃれたり膝に乗ったりする様が、如何にも愛らしかったからだ。僕もすっかり虜だった。

misato

10年前

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数日離れると、豆殿が恋しくなりまた店に足を運ぶ。豆殿のおかげで店に顔を出す頻度がぐっとあがった。 ある日、僕はまたいつものように店のベルを鳴らした。 が、いつもは感じる豆大福殿の視線が感じられない。 見渡せば、先客に撫でられご満悦の豆殿だけで、豆大福殿の姿はやはりない。 「おや、マスター、豆大福殿はどうしたんだい?」 するとマスターはひょいと肩をすくめ、自らの足元を指差した。

ミズイロ

10年前

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階下はマスターの家である。 「留守番ですよ。豆殿が人気で人気で…こっちにきてほしいというお客さんが多くて。けど、豆大福殿がいると、朱塗りの盆から動こうとしないんです」 看板猫の交代でしょうか、とマスターは呟き、豆殿の首の皮をつまんで抱き上げる。豆殿は満足そうに喉を鳴らした。豆大福殿の不在はじきに慣れるさ。僕は豆殿の小さな額を撫でた。 そうはいかなかった。 豆大福殿不在二週目に入るところだった。

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今日も飴色のドアを開けるが、あの視線の洗礼に見舞われない。その何たる物足りなさ! 現金な発言ではあるが、僕はこの珈琲店が豆大福殿ありきで成立していることを初めて思い知る。 もちろん豆殿の存在も今や欠かせない。どちらか一方だけの落ち着かなさよ。 「やはり豆殿の天下って訳でもないみたいです。ほら、そこには絶対に上がらない」 マスターが現状をぽろりと漏らす。主不在の丸椅子には、埃が溜まり始めていた。

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「……マスター、やはり豆大福殿にお越し願うべきではないかなぁ」 僕は半分空いたカップを受け皿に戻すと、真剣な顔でカウンターに向き合った。 「豆大福殿は、きっと豆殿を見守ってくだすっていただけなんです。僕らにそうしてくれていたように」 そうですねぇ、とマスターは目尻を下げた。この店には彼の御方が必要なのだ。 では、とマスターが席を立とうとしたその時、くわ、と聞きなれた欠伸が優しく足元から響いた。

まーの

9年前

- 完 -