耳を澄ます

私にとって、本は総てだった。 私の総て。世界の総て。 ぐん、と強い眠気に引き込まれるのと同じ様な感覚で私は簡単に本の中の世界に入って行くことが出来た。眠っている時は眠りの世界しかないのと同じで、そのとき私の周りには本の世界しかない。そうして何んにも見えなくなる。 口下手のルーツは、父からである。端的に言えば内弁慶という事になるのだろうか。幼い頃父は惜しみなく私に様々な本を買い与えた。やがて

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小学校、中学校と年齢が上がるにつれて、内弁慶はひどくなっていった。友達なんていやしない。友達は本だけ。 そんな私は今日も高校の図書室の隅で、ひとり本の世界に旅立っていた。私以外に利用者はいないようで、紙をめくる音だけが静まり返った部屋に響いている。 その時、ふと、本に影が差した。 見上げると、同じクラスの桐生くんが私を見下ろしながら口を開いた。 「新しい物語を紡ぎたくない?」

小麦

3年前

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新しい本ならまだまだ数え切れないほど残っているのに。私は図書室に並んだ九つの本棚を眺め、何をどう言おうか迷った。いいや、桐生くんは新しい物語を紡ぐかどうかを聞いているのだ。私の読みたい物語に関わらず。 「いえ、そんなに」 素直に答えた返事も、出来のいいものとは思えなかった。本当なら、そこで彼の話に興味を抱いて近づいていけばよかったのかもしれない。 「僕は新しい物語を紡ぎたい。君に手伝って欲しい」

aoto'

1年前

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図書室の穏やかな静けさを愛する私にとって、これ以上の会話は苦痛に思えた。どうして私に声を掛けたのだろう。一度だって口をきいたことなんてないのに。苛立ちの芽が鼻先にのぞいていたのだろう。桐生くんはそれ以上は何も言わず、壁際の低い本棚へと去って行った。 はじめての経験をもうひとつ。 それを境に、しばしば本の世界にすんなり受け入れてもらえなくなった。浸っていたかと思うと、弾き出されてしまったりして。

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私にとって、本は総て。本の世界から弾き出されることは、世界から弾き出されることと同じ。 大好きだった図書室の静けさが怖くなった。一人の私が浮き彫りになる気がして。読みかけの本は、どんどんと溜まっていく。 次第に私は、図書室から遠ざかるようになった。でも、今更クラスに馴染める訳でもなく。 机の上で寝ているふりをしたり、本を読むふりをしたり。教室の中で私は、ただ時間が流れるのを待っていた。

1年前

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「僕は新しい物語を紡ぎたい」 その言葉がずっと頭に引っ掛かっていた。私は物語を紡ぎたくない。こんなに本を読むのに。一片も物語なんて思いついたことがない。桐生君はなぜ私に声をかけてきたのだろう。よく本を読むからだろうか。貸出カードの名前欄にはいつも彼の名前があった。彼はどんな物語を紡ぐのだろう。私はちょっと寂しい話が好きだった。小川洋子みたいな。もう本を読むことはなくなったけど。

Utubo

1年前

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放課後、終業と同時に私は荷物を持って教室を後にする。急ぐ用事なんてないけれど、一刻も早く教室から逃れたくて──。 校庭の緑が、目に鮮やかに映る。 「図書室、来ないの」 校庭に出たところで桐生君に呼び止められ、思わず振り返る。 「僕が邪魔したから?」 桐生君はいつもと変わらない涼しい顔をしていたけれど、声には私を気遣う優しさが滲んでいた。 「ちがう」 通り抜けた風が、木々の緑をざわめかせる。

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「そう?」 「うん。あれよ、あれ。読む勢いって言うのかな? 読み進める力が弱まった感じでね。そうだ。読書パワーが落ちちゃったのよ」 「あの時に僕が止めちゃったのかもしれない」 「そんな事はないと思うよ。たまたまよ。たまたま!」 「だといいけど」 「そんな事よりさ。あの時言ってた事はまだ有効かな〜?」 「手伝いの件?」 「うん。君の新しく紡ぐ物語のお手伝いをしたいの。前と違って今はそんな気分なのよ」

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喋り終えて、勢いよく鼻で呼吸した。 息を荒くして。柄じゃない。読書パワーってなんだ。私はどうしてしまったのだ。私の世界は本の中だけで。私の心は本で埋め尽くされていて。それで満たされていたはずなのに。他のなにものが入る余地なんてないはずなのに。 なのに。 物語を紡ぐお手伝いって? 作家を目指してるの? どうして、私だったの? 聞きたいことが溢れてくる。 ねえ。 「小川洋子の作品、どれが好き?」

- 完 -