翠の花

かつかつとした職場のなか、少しだけ離れた場所で、孤独も焦りも感じさせずに佇む彼女は道路脇に咲く花のように見えた。ありふれた喩えだけれど。 初めてカメラを持った日に道の花を撮り続けたように、僕の眼は惹きつけられ、彼女を追い続けた。彼女は前に出されても、ふと気がつけば、微笑んで一歩下がっている。心地よい彼女の動きは、僕の心をほっとさせてくれた。 彼女は翠。よれよれの大学ノートをいつも持っていた。

noName

12年前

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「あの…、写真、撮らせてくれませんか?」 「はい?」 その夜は珍しく、フロアで僕と翠だけが残業だった。 お茶とお菓子を持ってきてくれた彼女に、お礼を言うよりも先に不躾なお願いをしてしまった僕はどうかしている。 「あの、写真が趣味で。いや、その。いきなりすみません」 「いえ。もし…私でよければ、ぜひ」 「え? いいの⁉」 「はい」 驚いた僕に、綺麗に撮ってくださいね、と翠は花が咲くように笑った。

12年前

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フロアの隅の休憩所。窓の向こうで煌々と灯を点すビル群を背景に、小さな撮影会が始まった。 ファインダーには彼女の固い表情が映る。写真を撮られるのに慣れてないのかな。 「もしかして転職考えてたりする?」 「どうしてですか?」 きょとんとして聞き直す彼女に、僕は答える。 「この写真、履歴書に貼ったらいい感じかと思ってさ」 意味を解した彼女はクスリとして相好を崩した。そう、その笑顔。僕はシャッターを切る。

saøto

12年前

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「転職って言うのとは少し違うかもしれないけれど」 そう言って翠はよれよれの大学ノートを胸に抱いた。 「小さい頃から詩を書く人になりたかったの。難しい事は書けないわ。目にした事を感じたまま綴るだけ」 そう語る翠に僕は相通ずるものを感じた。僕の写真も、何気ない日常の中で心惹かれたものを留めておきたい、と始まった。 「あの…君の書いたものを読んでみたいんだけど」 「あなたの撮った写真を見たいんだけど」

Noel

11年前

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言葉が重なって、僕らは顔を見合わせて笑った。これをきっかけに、ようやく翠と打ち解けられた気がする。 「詩を読ませてくれたら、その詩に合った写真を撮ってプレゼントするよ」 「本当? じゃあ私は、あなたが撮った写真に合うような詩を書いてプレゼントするわ」 後日、僕らは二冊の大学ノートを買い、僕は自分が撮った写真を貼り付け、翠は一遍の詩を記して、互いのノートを交換した。 「期限は?」 「一週間」

hayayacco

11年前

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他者のことを考えながら被写体を探し、シャッターを切る。 それは今までにない写真の楽しさを僕に与えてくれた。 翠の詩は翠そのものであり、彼女の優しさがにじみ出ていた。世界の美しさ、人の優しさを軽やかなリズムで綴ったそれは、人を平穏な気持ちにさせるものだった。 期限が近づくにつれ、僕は試験前の落ち着かない学生のようにそわそわとした。 翠は一体自分の写真にどんな詩をつけてくれたのだろう。

ミズイロ

11年前

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僕の写真は、彼女にどんな風に捉えられただろう。 彼女は僕の写真をみてどんな顔をするだろう。 僕はそう遠くない未来に思いを馳せた。 「期限だね。」 昼休み、翠は食堂で食事をする僕の隣に座り、話かけてきた。 「写真、撮れた?」 「もちろん。そっちは?かけた?」 「もちろん。」 翠は手にもっていた野菜ジュースを飲み干し、ゴミ箱に捨てた。 「なかなか楽しかったよ。他人が作ったものを表すのは。」

きっろ

11年前

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お互い考えるのは苦手なのかもね。そう言って翠は苦笑した。 僕はその二冊のノートをうち一つを手に取る。成る程確かに僕等は未熟で不十分だ。 自然に笑いがこみ上げて笑うと訝しんだ翠が僕の顔を見つめた。 窓の隙間から漏れる光に中和された翠の目は不思議と翡翠の様に思われた。 咄嗟に僕は笑いの意味を説明しようとした。 「あぁ、こんな感覚ばかりの詩と写真でさ」 話すのは苦手な僕は珍しく語った。

annon

11年前

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話しやすいな、と思った。二冊の大学ノートを前に、どのくらい話し込んだだろう。 今、君の瞳が君の名前通りに翡翠色に見えたんだ。本当だって。翠は笑ってくれた。 僕らは相手のことをまだ深くは知らないが、感覚的に、お互いの表現したものが好きなんだってわかった。翠の詩は、優しい言葉選びに品を感じられて素敵だった。そう言うと、翠は喜んでくれた。 そう遠くない未来に。僕のファインダーに合わせシャッターをきる。

aoto

11年前

- 完 -