花の金曜日。 くたびれたサラリーマンやお気楽な学生たちが、一週間の疲れと解放感と共に街に繰り出す日。 今週も変わらず繰り広げられるはずだった日常。 金曜日。 居酒屋やカラオケに人影はない。 それどころか、歩く人すらも見当たらない。 「今週末は、終末になるでしょう」 まるでダジャレか何かのような言葉が、人気のないスクランブル交差点の大スクリーンから流れ続けていた。
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岸本春雄はごく普通の会社員だった。彼は何年も家族の為に働き続けた善良な人間だった。 終末は愛する家族と過ごそうとしたが、この日彼は孤独を抱えた。妻は若い浮気相手の元に逃げていた。言い訳じみた短いメモ書きが妻の残した唯一の物だった。 娘も終末は恋人と過ごすようだ。今頃、男と安いセンチメンタリズムに浸っているのだろう。若者たちは終末に酔っているとテレビで言っていた。 彼は終末は何をしようか、と呟いた。
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この家で静かに過ごそう、間を開けてまた呟く。言葉が空を切って、ただ冷蔵庫が唸る。 これが終末か、悔いはない。マイホームを手に入れた。それで充分じゃないか。買い換えられなかった冷蔵庫の音さえ、今は愛しい。 彼はそう納得しようとした。 途端、周りから音が消える。電気が来ない?電力会社もセンチメンタリズムか。暗闇にひとり。無音。 … 右手で近くを探って放り投げる。窓が割れて心地良く音が響いた。
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光が消え、音が消え、誰もが暗闇にたった一人放り出された気分になった。 岸本友里恵は恋人にしがみついた。唯一感じることのできる温もりに、縋り付きたかった。 見合い結婚した夫は仕事人間で、家庭のことは任せきりだった。娘は恋人を作り、慈しんだ手から零れ落ちるように家に寄り付かなくなった。 今まで必死に家族のために家事をこなし、普通の家庭を繕った。 終末くらい、愛に酔いたい。それが例え偽物でも。
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その時が、刻一刻と近づいて来る。 残された時間は4時間も無いだろう。 やはり、その時を独りで迎える勇気は私には無かった。 誰も居ない街へ最後の温もりを探しに出掛ける事にしたのだ。 外に出て空を見上げるとそこには普段の3倍ぐらいに大きく見える月が浮かんでいた。
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岸本真奈美のそばでは、恵介が愛おしそうに彼女のお腹を撫でている。 「赤ちゃんができたみたいなの」 言うべきかを迷ったけれど、やはり打ち明けることにした。さっきまで、生まれるはずだった子の未来を想像しては笑ったり、少し涙が出たり。そして何度めかの沈黙。 今回それを破ったのは真奈美のほうだった。 「あなたに会ってみたかったな」
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あなたの結婚式に出たかった、おばあちゃんと呼ばれたかった‥ そんなつぶやきがつづいた。 終末の足音ははっきりと残酷なほど確実に愛し合う人々の後ろに迫っていた。 誰もこれを止める事は出来ないのであろうか?なぜ今更そんな事を考えるのか。 そんな中新宿の誰もいなくなったカラオケボックスで、高村義行と長谷川祐は終末後の希望に着いて話し合っていた。 「きっと新しい生命体が生まれるさ」
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「次の生命体は愛を持つだろうか」高村はつぶやいた。 「〈終〉明けには地球は壊滅的な状態だ。次の覇者はどんな生物だろう。もしかしたら愛なんてものは持たないかもな」長谷川が答える。 「そうだな、愛があるから人はこんなにも苦しみ、求め、傷つけあう。次はもっと穏やかな生物だといいが」 「万が一、終末を回避できたら世界に新しい秩序が生まれるかもしれない。何しろいま人々は一番愛に正直になっているのだから」
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終焉を前に、今すべての人が感じている感情… 愛おしい者への限りなき愛。 いたわりの心。 描いていた夢。 感謝。 そして、後悔… 終わりが近づくにつれ、崇高で純粋な感情が、世界を包み込んでいく。 「もっと早く気が付けば良かったのに」 天から、そんな声が聞こえた気がした。 次の瞬間、無限に広がる大宇宙の中の小さな星が、ひとつ消滅した。 また声がした。 「気付くのが遅かったんだよ…」
- 完 -