唐揚げとエンジン

彼は、ごく普通のよくある車に乗っていた。ありふれたエンジン音でも私は聞き分けられた。 深夜になると、車はほとんど通らなくなる住宅街。約束をしていなくても、彼の車はなぜかわかった。 「どしてわかるん?」 私の知らない田舎町の訛りで彼は訊ねる。 「どしてやろうかねえ?」と、彼の故郷の訛りを真似て返してみる。 「驚かそうとしてもつまらんわ」 そんなやり取りを何度しただろう。 私は彼の帰りを待っている。

10年前

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あいつはなんでだか、俺の車の音を聞き分ける。 昼間はは賑やかでも、こないに夜更けになったら誰も走っとらんこの道路を俺は、この時間帯にいつも走らせた。 なんも変哲もねぇ車。 なのに、あいつは俺が車でこの道を走るとすぐ飛んでくる。飛んできておかえりと笑う。 俺はよくなんで俺の車や分かるんかと尋ねた事がある。でもあいつは『どしてやろかねえ?』と俺の言葉を真似してカラカラと笑いよった。 いつもそうやった。

gung3112

10年前

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そんな日々を積み重ねて、いつか妻と夫という立場になっても続くものだと思っていた。 別れようと言い出したのはどちらの方だったのか。よく思い出せない。 さっきまで彼が座っていたベッドの縁が少し沈んでいる。 これで、終わりだ。 本当に、終わりだ。 二度と彼と笑い合うことも、冗談を言い合うこともないのだ。 そう思っていたはずなのに。 ぶるる……と聞きなれたエンジン音を合図に、部屋を飛び出した。

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最寄りのスーパーに到着した。彼との別れ話で憔悴しきっていたが、取り敢えず晩御飯のおかずは買わなきゃいけない。 精肉コーナーの前で、鶏肉が目に入った。よく作った鳥の唐揚げ。うめえ、うめえと言って唐揚げを口に詰め込んでいく彼が頭に浮かんで、少し寂しかった。 見えるものすべてのものが彼に繋がっていて、自分が情けなく思えて来た。 できる限り視界が狭くなるように、うつむいたままレジを済まし、スーパーを出た。

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こんな夜も月は美しかった。 触れればすぐに割れてしまいそうな細い月だ。 「知っとるか? 夏目漱石はアイラブユーを『愛してる』じゃなくて『月が綺麗ですね』って翻訳したんやって」 いつだったか、彼と夜道を歩いていた時にそんな話を彼が得意げに話し出した。 その話知ってるよ、と言うと、ちぇ、と彼は不満げに舌を鳴らして空を仰いだ。 「月が、綺麗やな」 私は驚いて彼を見た。彼は恥ずかしそうに笑っていた。

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「本気なの?」 「ああそうや」 私は指を立ててほほえんだ。 不器用で可愛らしいあなた。愛しいあなた。包んであげたい。守ってあげたい。包んで欲しい。守って欲しい。 あのエンジン音が、唐突に止んだ。静かであることが、こんなにも辛いなんて。あの訛りが大好き。本当に…、どしてやろうかねえ?

KdV

7年前

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家に戻った私は、買ってきた食材を机の上に出した。並べるというほど気を遣う余裕もなかったので、半ば袋から放り出すようにした。 特売のもやしの袋の間から、発泡スチロールでできた薄いトレーが覗いていた。 スーパーで目に入った鶏肉。気がつくと手が伸びて、カートの中に入れていた。記憶はなかったが、律儀なことに小麦粉と片栗粉も買っていた。 衣を付けた鶏肉は、油の中で小気味良い音を立てた。辛い静寂が消える。

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油音に負けるような小声で「なんで、鶏の唐揚げが好きなん?」とつぶやいてみる。 少し間を置いて「どしてやろかねえ?」と自分で自分に返事する。 なんだか寂しげで悲しい儀式だ。 ふと見ると、ちょうど良い色に揚がっていたので、大皿に盛ってゆく。 彼が好きだったように山にして。 そして、つい癖で、取り皿をふたつ出してテーブルに置いてしまった。 私の方にはポン酢のビン、彼の方には七味唐辛子のビンまでも……

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その時、聞きなれたエンジンの音が聞こえた。 外を見ると、やはり彼の車があった。 「──」 彼が何か言った。その言葉はすぐには理解出来なかった。けれど足はすぐに動いて、階段を下り、彼の元に走っていた。 夏目漱石が月が綺麗ですねなんて訳したのなら、私達ふたりには、こんな言い方がぴったりかな。 「早く、唐揚げ冷めちゃうよ」 彼の手中にあった指輪ごと彼の手を引いて、私は家に入った。

U#

6年前

- 完 -