うつつなしの街

新しい街に引越して来て、ちょうど一年が過ぎた。 随分暮らしにも慣れたし、今となっては前の街より住み慣れたかもしれない。 住めば都とはよく言ったものだ。 しかし、そんなある日、僕はふいに前の街が懐かしく思えて、以前住んでいた辺りの事をインターネットで調べてみる事にした。 この一年で変化はあっただろうか。そんな軽い気持ちだった。 だが、僕が住んでいたはずの街は、なぜか存在していなかった…

TSUBAKI

9年前

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僕は不思議に思い掲示板に誰か知っている人はいないか聞いて回った。しかし、誰一人として知っている人はいないし、中には精神病院を勧めてくる人までいる始末である。 僕の住んでいた場所はどこへ消えたんだ? 僕は宿泊できるような準備をして家を出発した。自分が住んでいた街を探しに。 僕はひとまず駅に向かった。そこの券売機。住んでいた街まで行く値段を調べる。 どこにある? 駅が一つ消えていた。

海沼偲

9年前

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僕は改札横の窓口で尋ねた。 『ゆめさと』『きりなか』の間に『うつつはら』と言う駅があったはずだ。 でも、駅員さんは僕の目を見ながらも虚ろな視線で、まるで僕の影にでも話す様に 「そんな駅は、今迄もこれからもありやしませんよ」と、言った。 「一年前迄僕は住んで居たんですよ!」 僕はイラっとして声を荒げたが、駅員さんは無表情で、もう何も言ってくれなかった。 僕は仕方無く手前のゆめさと迄の切符を買った。

真月乃

9年前

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「次は ゆめさと〜 ゆめさと〜」 眠そうな車内アナウンスを聞いて僕は電車を降りた。 以前住んでいた時はあまり電車を使わなかったせいだろうか、隣の駅ではあるがあまり懐かしさはない。 早速、ゆめさとの駅員さんにも消えた駅のことを尋ねてみるが、先程出発地で聞いたのと同じようなことしか言わなかった。 こうなったら自分の目で確かめるしかない。 僕は線路を辿って歩いてみることにした。

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スマートフォンによると、ゆめさと駅ときりなか駅は経路で1kmほど距離があるらしい。間にうつつはらの文字はない。 改札を抜け北口から外へ出た。駅前は小さいながらバスのロータリーとタクシー乗り場になっていた。道路の向こうには居酒屋チェーン店の看板が見える。うつつはらよりは立派だ。 線路沿いの道を歩く。空間を使い尽くすように高架下に沢山の店があり、半分は開いていなかった。居酒屋のようだ。

柳瀬

7年前

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『準備中』という札がある店が目に付いた。その店にはなぜだか店名がない。不思議に思い、その入口の前に立つ。店内から懐かしい匂いがする。なぜだろう。 「あんた、それが見えてんだな」 背後から話しかけられ、飛び上がりそうになる。振り返ると同じ歳くらいの女がいた。 「あんたも操作されたんだね。忘れてないのはあたしだけじゃないようだ」 女はにやりと笑って僕の手を引き、『準備中』の居酒屋のドアを開けた。

7年前

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女は店主だった。僕を席に座らせ、コップと小鉢と箸を渡す。 「蕗の水煮?」 「あんた結構舌肥えてるな。ま、あの街は美味しい物が多かったからね」 彼女はぽつり、ぽつりとあの街の話をし、僕はそれを黙って聞いていた。秋夜の長雨のような時間だった。 「でもね、コレ全部虚構。あの街は現実に存在しない。あたし達の頭に共有された街さ」 彼女は続けてこう言った。 あたしらはね、記憶実験の被験者という奴さ。

6年前

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発声の仕方を忘れたかのように言葉を発せず、自分の口が、喉が、他人の借り物のような、奇妙な違和感を覚える。 「記憶をいじられてるからね、その副作用で、時々、ここにくる人はそうなるみたいさ」 医者に話せば失語症と言われるけどね、と彼女は呟く。 「どんな実験で、なんのために?」 「世の中には知らない方が良いことがあるもんさ。自分の目で見たことだけを信じるしかない。この居酒屋も虚構かも知れなくても」

《靉》

6年前

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無性に僕は寂しくなって、涙をポロポロと流してしまう。頬を伝い落ち、行く先はコップに注がれた透明な酒の中。 「どうして泣くのさ」 「あの街が…懐かしくて」 「可笑しいね。現も夢も、全部虚構みたいなもんだろ」 店主の言うことは難しくて僕には理解できない。帰ろうとも思ったが、僕が今住んでいた街はどこだったろう。 店の窓の向こうには、いつの間にか霧雨。店主は笑って呟いた。 「飲みこんじまえばいいさ」

いのり

6年前

- 完 -