café Le côté La plage とある横浜の喫茶店。 マスターにいつものコーヒーを頼む。出てくるのは勿論、スペシャルブレンド。心優しいマスターが常連である僕の為に自分で厳選した豆を丁寧に炒り、僕の好みである粗挽きにしてから適温で淹れてくれる。 一口目は先ずブラックで戴く。 深みとコクがありキレと酸味と苦味の絶妙なハーモニー。 これで350円というのだから驚きだ。
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「うまいだろ」 マスターが意味ありげに聞いてくる。 「わかってんなら聞くなよ」 と答えると、マスターはにやにやしながら仕事に戻った。ここに通うようになってから、僕はずいぶんマスターと親しくなった。 すると戻ったと思ったマスターがまたこちらのカウンターのほうまで来て、 「今日はまだ来てないぞ」 と僕に耳打ちした。誰のことなのかは一瞬でわかる。ここで見かけて一目惚れしてしまった女性のことだ。
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といっても僕は彼女の名前すら知らない。むろん、今まで話したこともない。だから僕は密かに彼女の事を、マドンナと呼んでいる。 彼女もこの喫茶店の常連らしい。 日当たりのいい、窓際の隅の席が彼女の特等席。いつも一杯のコーヒーを頼み、読書しながら一時間程過ごしている。 彼女の茶色がかった髪と可愛らしい雰囲気、何より時折見せる朗らかな笑顔に僕は一瞬で落ちてしまった。 今日こそ彼女と話せたらいいのだが。
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カラン… 店の扉が開くと、やはりマドンナだった。マスターが彼女を特等席に案内する。 彼女はとろけるような笑顔をこぼしながら、いつものお願いね、と告げた。 そして彼女は座ってすぐに本を開いた。 マスターが目で合図してくる。 "今がチャンス" 僕は機会を逃すまいと、意を決して席を立った。彼女の特等席へ近付くと、ふわりとコロンが香る。彼女が僕に気付いて、綺麗な顔をこちらに向けた。 「あの…」
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「お隣り、いいですか?…」 「えっ、あぁ…どうぞ。」 記念すべき最初の会話はぎこちなくなってしまった。彼女が隣りのイスに置いてあった自分の鞄をどかし、僕に席を譲る。 「あの…いつもこの席で読書されてますよね?」 次に続く会話が思い浮かばず、つい口から出てしまった。彼女は驚いたのか、戸惑ったのか、なんとも複雑そうな目で僕を見つめ返し、一言「はい…。」と頷いた。 マズイ…不審がられたか…。
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彼女はすぐに視線を本に移す。 読書の邪魔をしてしまっている。でも、話はしたい。どうすればいいんだろうか。 このままでは、ただの不審者だ。 「あの、あなたもこの店の常連さんですよね」 彼女は本に視線を集中させたまま、僕をみようとせずそう言った。 「珈琲、お好きなんですね。必ず一口目はブラックですもの」 囁くような彼女の声。ほんのり顔を赤らめながら彼女は、僕を見た。 「え?」 驚いた。
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まさかマドンナが僕のことを見ていたなんて。いつも、ということはそういうことなんだろう。マドンナはまた本に目を落とす。茶の髪の隙間から少し赤く染まった耳が見えた。もしかして、照れてるのか。 「あ、はい。好き、です。」 「わたし、お砂糖いれなくちゃ飲めないんです。」 子供っぽいでしょう。そう言って彼女は笑った。コーヒーの香りと、彼女の甘い雰囲気に当てられて少し酔ってしまいそうだ。
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「お待たせしました」 マスターが彼女にコーヒーを運んで来た。香り立つ湯気に、彼女が目を細める。 マドンナが閉じた本のタイトルを見て、僕は驚いた。 「その作家、僕もよく読みますよ。デビューの頃から好きで…」 「私もです。来月の新作が楽しみで」 嬉しさに、思わず彼女の手を取りそうになって、慌てた。 我に返って逸らした視線の先には、砂糖を入れるスプーンに添えられた細長い指。 心臓が、うるさい。
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「…新作、読んだら感想を教えてもらえませんか?」 思い切って彼女に言った。喉がカラカラだった。 彼女は驚いた顔で僕を見て、そしてそっと笑顔になって頷いた。僕が何度も空想した仕草そのままで、グッと心臓を掴まれた気がした。 今度の新作は茶色い髪の女性がヒロイン。もちろん、彼女をイメージして書いた。海辺のカフェでの運命的な出会いから始まる、小さな恋のお話。 彼女は気付いてくれるかな、僕の想いに…
- 完 -