病に伏せる老人はこう言った。 『生きたい。 だが、生きるのは…怖い』 青年は老人に問うた。 『どうして、怖いのですか?』 老人は小さな声で答える。 『…体は動かなくなり、記憶も頭から消え去っていく。自分を失う恐怖や苦しさと戦いながら生きることが、果たして幸せなのだろうかと、思ってな』 老人は皺で覆われた瞳に光るものを宿し、自嘲気味に笑う。 『けれども生きたいと願う…私は、愚かだろうか』
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青年は、老人の手を優しく握る 『愚かですね。愚かだけど…気高く美しい。私はそう思いますよ』 『…気高く美しい…?』 『ええ。恐怖や苦しみ、痛みと戦うだけ命は輝く。その輝きは太陽にも劣らない輝き。その人しか出せない輝き。…死を恐れない人間が、命を輝かせることなんてできやしない。私は、そう思うのです』 青年の言葉に、老人は優しく笑った
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『だからこそ、あなたには死んでもらわねばなりません』 青年の手に力がこもる。 『私が誰だか、分かりますか?』 その声はひどく冷めていて、老人は青年の機嫌が悪くなったことを感じた。 『質問を変えます。今は何年何月何日かご存知でしょうか』 青年はゆっくりとそう言った。今度は落ち着いた様子だった。 老人はいくつもの謎を抱えて呆然とする。 『少し、考えさせてくれ』 『もちろん』
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老人は青年の言葉を反芻した。 この青年は一体誰なのか。今は一体いつなのか。 質問は単なる隠喩に過ぎないのではと思うほどに何もわからなかったが、青年の態度は老人が答えを知っていると示唆している。 それ故に老人が死なねばならないのだということも、だ。 ならばいっそ、知らないままでいるべきなのだろうか── 『待てるのは、半日までですが』 老人の考えを見透かしたように青年がつけ加えた。
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老人は床の上で青年について考えてみた。最近ではただでさえ物忘れが激しくて、見舞いに来てくれた人であっても、名前の思い出せない顔がちらほらあった。それも、どうやら彼は自分のことを憎んでいるようだ。青年には申し訳ないけれど、老人は青年のことを思い出すことができなかった。どの道少ない命である。彼の怒りをとくために死ぬのも悪くないかもしれない。 せめて、彼のことを思い出せたなら、彼の溜飲も下がるだろうに。
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『申し訳ない』 何も思い出せなかった老人は、再び訪ねてきた青年に正直に謝罪した。 『今日の日付は分かる。頭はすっかり衰えたが、カレンダーを見るくらいの知恵は残っている。しかし君のことは思い出せそうにない』 青年の表情が失望に曇る。 『理不尽だな。僕はあなたのことばかり考えて生きてきたというのに』 彼は懐からナイフを取り出して机の上に置くと、吐き捨てるように言った。 『今日は、父と母の命日です』
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『一年前、二人揃ってこの世を去りました。事故?いいえ、違います』 父と母は、殺されたのです。 青年の目には昏い炎が燃えていた。 『端から見れば熟年夫婦の心中事件でしかないでしょう。しかし僕は知っている。二人の死は他殺だと』 浴びせられる容赦のない声音と射るような眼差しに老人は震えた。 心が芯から冷えるようなのに、それでも記憶は固く閉ざされ揺らがない。 『あなたを生かすためだったのですよ?』
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生かすため?青年が何を訴えているのか全く分からなかった。老人の記憶は何処までも深い闇のようだ。 『両親の最期はとても無残なものでした。車ごと海へ真っ逆さま。僕も一緒に乗っていれば良かったと何度思ったことでしょう…あなたは報いを受けるべきだ』 青年は一息つくと鬼の様な形相で此方を見た。その顔を見た瞬間、記憶の闇に一点の光が射した。…よく似ている。怒りや憎しみに歪んだ顔は何年経とうが忘れられない。
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病に伏せる老人はこう言った。 『死にたい。 だが、死ぬのは…怖い』 青年は老人に問うた。 『どうして、怖いのですか?』 老人は小さな声で答える。 『…君のご両親の死に際を見たからだ。君に会うまでとうに忘れていたよ。とても苦しそうだった。』 老人は皺で覆われた瞳に闇をたたえ、自嘲気味に笑う。 『けれども死にたいと願う…私は、愚かだろうか』 『ああ、愚かだ』 青年はナイフを振り下ろした。
- 完 -