ぬばたまの夜

今宵また魔物が私の褥に忍んでくる。 私の髪の根を鷲掴み右に左に翻弄する。 灼けた鉄の塊の様な身体で私を捩じ伏せる。 哀願など聴かぬわ、と私の身体に押し入り切り裂く。 手に持つ数珠も読経も護符も私を護ってはくれぬ。 どなたか、どなたかこの魔物を調伏してくだされ。 このままでは私は骨の髄まで蕩かされ生ける骸となってしまいまする。 魔物の虜となってしまいまする。

Noel

12年前

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九条大臣の奥方より文を受けて、私は烏丸通を急いでいた。斯様な物の怪については古今の文献を当たるも例が無い。 九条邸に到着すると家人が迎えた。 「土御門と申す」 「おお、陰陽師さまでございますね。奥様より伺っておりますよ」 奥の部屋へと通された時分、彼女は床に伏せっていたが、身を起こし私に向き会釈をした。年の頃は二十四、五。連夜の禍事による憔悴がみられるも、その臈長けた姿に私はひと時目を奪われた。

saøto

12年前

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惚けていると、足下で二度裾を引っ張られる感覚に我に返りそちらを見る。 そこには二本足で立つ服を着た狐が、私の袴の裾をぐいぐいと引っ張っていた。 「主よ。」 そのやり取りを見ていた奥方がふっと笑った。 「まあ、可愛らしい。名はなんと?」 「ライと申します。主の式にございます。」 私が答える前にライは間髪入れず答えた。 私は一つ咳払いをして、奥方に状況を詳しく聞く事にした。 「"アレ"はーーー

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奥方は顔を伏せ、肩を震わせた。 「悍ましい...酷く獣の匂いのする魔物です」 「角は」 「角...」 顔を上げた奥方の瞳には透明な雫が溜まり、今にも零れんばかり。 瞬間、私はその涙を指先で掬い取りたい衝動に駆られた。 「嗚呼、あれは確かに角を持って居りました。何処にでも自在に生やせる角を。それを操って私を...」 奥方は唇を噛む。 此れは色香だ。 物の怪はこの奥方の色香を求めて来ているに違いない。

さはら

12年前

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私は奥方付きの女房にも話を聞くことにした。今も奥方の手を握り、枕元に侍っている。 「貴女はその魔物とやらに会うたことはお有りだろうか」 女房はゆるりと首を振った。 「姿を見たことは御座りませぬ。獣の臭いと、御方様の苦しげなるも悩ましいお声に恐ろしゅうなるばかりで」 「嗚呼、浅ましきやとお思いでしょう、陰陽師殿」 ほろほろと涙しながら私を見上げる眼差しは、話の魔物よりも余程に魔性のよう。 「…ライ」

Hydrangea

12年前

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「御意」 私が言わんとすることを解したらしく、ライはつと姿を消した。私は奥方に向き直る。 「今宵、魔物を見極めさせて頂きたく存じます。几帳のご用意を」 奥方の表情が安堵に綻ぶ。 「仰せのままに」 ほんのりと朱が差した頬から、私は目を逸らした。 かくして私は、几帳の影で魔物を待った。月の無い夜、直ぐに獣の臭いが漂い始める。 ざり、ざり、と。伏せる奥方に、何者かが近付いている。 「──今だ、ライ」

lalalacco

12年前

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几帳の帷子をたくしあげると、ライは獣の臭いのする方向に勇んだ。 剥き出しになったライの牙は、闇夜に疾雷の如き威嚇を放つ。 要撃された影は蔀戸に打ち付けられたようだった。綻びから様子を眺めるのに灯りは足りていないが、畳みかけるように追うライの足音は事の次第を物語ってくれていた。 魔物の面を拝む為に起立した刹那、背後から馥郁たる香りが私を包み込んだ。幅筋を掴んで逃れると、私は香りの正体と対面した。

aoto

12年前

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醜い。 目も当てられぬ醜さ。 近寄り難い。 そして何より、 ーーーーーー強い。 そいつからは闘気がほとばしっていた

増井俊雅

11年前

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魔物は飛びかかった。攻撃を避け、正体を見破る呪文を唱える。見えたのは狐の姿の鬼。奥方の情念が鬼女と化したのか。 鬼女は強い力を持つが、妖としては下等。依り代なしには留まれない。視線を走らせると文箱が目に入った。最早勘に過ぎぬ。掴んで床に叩きつけた。そこからは何通もの漆黒の文が現れ、魔物と一緒に溶け出した。 異心。私は奥方が魔物と化した訳を悟った。 全てが終わり残されたのは、老いた一人の女だった。

月野 麻

11年前

- 完 -