浮世の簪

水上げされ、爵位ある男の妻になり、時々歌舞伎を観劇する。 舞台に登場する廓の女達をみると、昔の自分や、妹たちを思い出す。 態度の悪い子、 毎晩、田舎の母親を思い涙を流す子、 好いた男のせいで日に日に痩せていく子… 中でも思い出すのは、 …八千代。 『あのばばあ、一生ここにくくりつけるつもりでこんな名前をくれやがった。八千代だと?糞食らえだ。』 威勢の良い懐かしい声を思い出した。

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母親に売られて廓に来た時の八千代は痩せこけた少女だったけれど既に自尊心を持ち反抗的な態度をとっては縛られていた そのくせ皆が一度は犯す過ち、逃亡は決してしなかった ”なんだって運命を受け入れるんだい” 『男に貢ぐ金の為に私は売られた。花魁になってあの女が男に貢いだ何百倍の額を男共に払わせてやるよ。いつか姉さんみたいになってやるさ。』 その時の野心に満ちた瞳は八千代が花魁道中をする時も変わらなかった

紫乃秋乃

11年前

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八千代は男に媚びたりしない。人が振り返るような美貌はないと自分を知っている。所作に始まり芸事、言葉遣いは、八千代の魅力だ。媚びないけれど男をうまく立てる事を忘れない。不思議な色香を持つ八千代を、私は何度羨ましいと思った事だろう。 八千代は、私を慕ってくれたけれど。 私は八千代といると八千代が纏う不思議な空気にのまれそうになった。 花魁としてというより、人としてかなわないと感じていた。

11年前

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「お姐さん、その簪(かんざし)貸しておくれよ」 べっ甲素材で美しく細やかな彫りが施された私の簪を八千代はいたく気に入っていた。 こんな簡素な簪よりも良い物を持っているだろうに、八千代は上客で気に入った相手と会う時はこうやって私の簪を借りにきた。 「これを挿してるとさぁ、お姐さんみたいに優しい女になれそうで」そう言って出て行っては翌朝には綺麗に手入れして返してくれた八千代。 そう、あの日までは──

11年前

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あの日は私の上客である呉服屋の若旦那で、見た目もよければ商才もある、弁も経てば芸事も出来る、ただ一つ腕っ節はめっぽう弱く、気が優しすぎるってことだけが彼の傷であり美徳であったような人が私と八千代を指名して藤の間で遊んでいた。 君は媚びないね、媚びない人はいい、女はそれを感じさせなくても可愛げがあるのがいい女だ、などと言いながら八千代に語りかけているのを見て、意地悪く、私はいい女?などと聞いてみた。

terry

11年前

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若旦那は笑って何も言わなかった。 なぜかそれにひどく腹が立った。ダメな女と言われた方が百倍マシだ。 八千代は、姐さんは私の目標だ、などと言ってくれたが、そのフォローがまた腹立たしい。 年下の八千代に自分が負けているようなそんな嫌な気分で。でも怒りを顔に出さずに、私は彼にすり寄った。 八千代の申し訳なさそうな顔にひどい嫌悪感を抱く。技術で目にもの見せてやるわ。 あちきの方がいい女でありんす

Dangerous

10年前

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それで結局私が選ばれたのだから、不思議なことだ。 あの日からすぐに、若旦那様からお家に来るようにってお達しがあって、私は一夜にして遊女から良家の妻になってしまった。 八千代とは顔をあわせることが出来なかった。時間がない時間がないと、言い訳のように大風呂敷に細々の道具を纏めて、逃げるように車に飛び乗ってしまったから。 簪だけは置いてきてしまった。あの日簪を付けていたのは八千代だったのだ。

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「ハァ…」 憂鬱になりふと、観客席を見ると見慣れた簡素な簪が目に入った。 「え?」 簪はある女性の髪に凛と刺されていた。女性の顔を見ようとした時運悪く前を向いてしまった。隣には私の旦那よりはいい身分では無さそうだが優しそうな男性が微笑んでいた。女性もとても楽しそうに微笑んでいた。あれが八千代かは分からない。だけどあれが花魁を抜け、良き旦那に巡り会えた八千代ならばとても嬉しいことだと思った。

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そしてもし彼女が未だ遊郭に居るとしても、否、むしろそうであってくれたなら。私は衷心から八千代を祝福してやれるだろう。 ──八千代。 それは私の進言で女将が付けた名だ。 古参の私が抜け、一番の稼ぎ頭は八千代になったはず。あの子は媚びずとも他の追随を許さず男の心を掴んで放さない。羨望に能う才がある。 憐れなのは、女の意地を張って彼女を恐れた私の方だ。あの簪を持つ資格は嬉しくも哀しいかな、もうあるまい。

- 完 -