赤の悪夢

「ごめ、んなさ」 細い腕に痣の花を咲かせて、少年は己を守るように縮こまっている。それをおよそ母親が愛しい我が子に送るものとは思えないほど無機質な視線が、少年を捉えていた。少年を見下ろす、上品な出で立ちの女。化粧で整えていたのであろうその顔の皮は、今は醜く歪んでいる。 「煩い」 女は少年の言葉に耳をかそうともせず、裸の足で少年を蹴りつけて、その小さな頭を壁に擦りつける。それからニィ、口角を上げた。

12年前

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ペディキュアの赤、口紅の赤、壁に飛び散る赤。少年は鼻から流れる血を両腕で必死に拭う。愛されるべき存在から愛されないという冷酷な現実に抗う術をまだ知らない。その瞳に恐怖のみを映して少年は繰り返す。 「ごめ、な、」 その言葉がますます加虐心を煽る。愛おしい。か弱い所有物である我が子が愛おしくてたまらない。女は微笑みながら少年の背を踏みつけた。電話が鳴る。少年の背に足を乗せたまま女は受話器を耳に当てた。

lalalacco

11年前

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それは転落。 すっ、と花弁が落ちるように、女は言葉を失った。紅い唇はだらしなく広がっている。狂気のような甲高い声をあげ、嗜虐に愉悦を漏らしていた女の姿はいない。電話の相手に向け、声音を変え、必死に謝罪を続けている。 電話の主は誰だろう。愛すべき人を正しく愛せられるように。ねじれた世界を正してくれるヒーローだったら嬉しいな。少年は空想を働かせる。 「ごめ、」 女を待たず、電話は切れた。

aoto

11年前

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受話器を握り締めたまま、女は暫く動かなかった。身体が微かに震えている。伝わってくるその気配に、少年は身を強張らせた。失意が憤りに変わるのを感じたのだ。 「あんたのせいよ!」 女は叫び、少年の腹を蹴り上げた。 「あんたさえいなきゃ…!」 ──ご、めな、 少年の唇が動く。けれど声は出なかった。女がもう一度蹴る。少年は身体を丸め、胃液を少し吐いた。

misato

11年前

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女を怯えさせたのが誰かは分からない。 誰でもいいのかもしれない。 誰でもいいんだ。 電話の主。誰が? 少年にはわからなかった。だが、故に思った。 「僕でもいいや。」と。 女が男と遊びに出ている間にかき集める。 包丁と金槌と鋸と、凶器になる物の全部。 玄関からの死角を探す。 このままじゃ、生きられないから、 僕が「電話の主」になるんだ。

mozku

11年前

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もうあの赤い唇から発する汚い言葉に怯えて暮らしたくない。 僕は、怯えてばかりの僕を捨てて、あの女を怯えさせる僕になるんだ。 少年は、女が戻るまで家の灯りを消して息を潜めた。玄関には罠を仕掛けた。 女は玄関を乱暴に開ける癖がある。 ドアを引いた瞬間、女の顔面に金槌がぶつかる仕掛けを。 ぎゃあ、と叫んだ隙に、女の腹を蹴飛ばしてやろう。 少年の心から恐怖が消えた。 怯えていた目にはギラギラした光が。

11年前

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暗闇から覗くギラギラとした二つの光。瞬きすら忘れたかのようにドアを見つめる張り詰めた時間。しかし、暗闇に光が差し闇が溶けるように消え、朝がきても女は帰らなかった。闇の中でギラギラ光っていた瞳は光をなくし、かわりに少年に襲いかかったのは猛烈な渇きと耐え難い空腹感だった。強く握りしめた指は強張り、足にも力が入らない。少年は倒れこんだ。 「俊、いるのか?」 懐かしいおじさんの声がした。 ああ金槌が。

makino

11年前

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彼にはもう動く力はなかった。 懐かしいおじさんの声は「ぎゃあ。」という叫び声を最後に聞こえなくなってしまった。 あぁ。もしかしたら助かるかもしれなかったのに。 這うようにしておじさんの元に寄る。微かな希望、生きているかもしれないという助けの綱は、無残にも千切られていた。 おじさんの頭から流れるたくさんの赤。 それを見た時、彼は恐ろしい感情を抱いた。 綺麗だ。

Dangerous

11年前

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「......」 赤。ペディキュアの赤。口紅の赤。花弁の赤。 「......そっか。」 赤。唇の赤。狂気の赤。愛の赤。 「......こんなに、綺麗なんだね。」 赤。血。赤い血。赤い愛。おじさんと血と赤と愛と赤と赤と「I」が近くの鏡に、視界に、写る。 「.........おかあ...さん...」 少年は、裂けたような笑みで、ただ動かず、肩を揺らしていた。

天田萌花

11年前

- 完 -