「お母ちゃん、今日のお肉は硬いよ」 「贅沢言わずに食べなさい。噛めば噛むほど美味しいお出汁が出てくるから」 ほんとに今日のは硬くて美味しくない。 昨日の晩、お母ちゃんが山の麓にあるボチと言う所から持ってきたニンゲンという生き物のお肉だから。 でも、僕のうちにはお父ちゃんがいなくて生きてる生き物を狩るのは難しい。 だから、僕が大きくなったら柔らかい生き物を狩ってお母ちゃんに食べさせてあげるんだ。
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ーーそんな懐かしい記憶が一瞬にして砕け散った。 お母ちゃんが倒れている。優しく僕を見守ってくれたその瞳は濁り、口の端しから流れる血が地面に染み込まれていく。新雪のように真っ白だった毛も、見るも無残に赤で彩られていた。 何だ、これ。 苦労して捕まえた野ウサギが口からこぼれ落ちたことにも気づかないくらいに僕は混乱していた。 僕がいない間に一体何があった? 誰が、誰がお母ちゃんをーー
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その時だった。 ズドォンッという大きな音が遠くから聞こえた。 確かお母ちゃんが言ってた。 ニンゲンという奴がこの恐ろしい音で山の生き物達の命を奪うんだって。 もしかしたら、お母ちゃんはそのニンゲンにやられたのかもしれない。 お母ちゃんはあの音を聞いたら逃げるように言ってたけど。 だけど……。 お母ちゃんがやられて黙ってられるもんかっ。 お母ちゃんっ。 僕がお母ちゃんの分まで仕返ししてやるからねっ。
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僕は扉を開け外に出た。どこまでも広がる空の下、僕は歯を食いしばり自分に言い聞かせた。 ーーー…ニンゲンなんかにびびってちゃ駄目だ。此れは復讐。お母ちゃんを殺した奴を必ず僕が仕留めるんだ。 大好きだったお母ちゃんが死んだ。悲しくて苦しくて腹立たしい。 僕の中の何かが弾ける。空から雫が降ってきた。お母ちゃんが泣いてる…… 僕が必ず仇を打つよ。見ててねお母ちゃん。
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ぽつり、ぽつり。 冷たい雫はお母ちゃんの涙だ。ごめんね、お母ちゃん。僕は何にも出来なかったよ。 山の中腹で左足を罠に挟まれ、どれくらいの時間が経っただろう。痛みと空腹と、何よりお母ちゃんの仇うちが出来ない悔しさで、僕は何度も泣いた。 お母ちゃんもきっと泣いている。 ざく、ざく。 ニンゲンの足音が近付いてくる。 もうおしまいだ。 「なんだ、まだ子どもじゃないか。よしよし、今外してやるからな」
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ニンゲンが目の前にいる。 僕は鼻面にシワを寄せて低く唸った。それは精一杯の威嚇だったが、ニンゲンはお構いなしに手を伸ばしてくる。 僕はその手に噛み付いた。牙を立て、肉を引き裂き、お母ちゃんの無念を晴らしたかった。だけど、僕にそんな力はなかった。 「はは、痛えな」 僕にニンゲンの言葉は分からない。そいつは噛み付かれたのに怒りもせず、僕の左足から罠を外した。 「こりゃ手当てしねえとな」
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唸り声をあげ、歯を鳴らして僕は抵抗を続けた。ニンゲンはお母ちゃんの仇なんだ。お母ちゃんを泣かせた奴らなんだ。僕の怒りをニンゲンは笑って誤魔化す。 「そう暴れるな。傷が深くなるぞ」 ニンゲンは僕を抱えて山を下りると、罠にかかってしまった左足に緑色の何かを塗りつけた。傷口にしみるけれど、痛みが和らいでいく。その上から白い布を巻き付けると、ニンゲンは僕をふかふかした乾いた草の上に寝転がせた。
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なぜだ。なぜお母ちゃんをあんな風にした奴らが、僕に優しくするんだ。 何がしたいんだ。 ニンゲンは、何が目的なんだ! 「明後日ぐらいには森に戻れるからな。少しの我慢だぞ」 翌日、そのニンゲンは朝早くからでかけた。そして、2度と帰って来なかった。 その日の夜中、部屋に入って来たのは目にいっぱい涙を貯めたメスのニンゲンだった。 「あんたの…あんたの仲間に…うちの夫はやられたんや」
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メスの手に握られた銀の鋭い爪が、月を写して鈍く光った。 その瞬間、お父ちゃん似だとお母ちゃんが良く毛繕いしてくれた僕の大きな右耳が、床に落ちた。 ドクドクと激しい痛みが頭と顔に走り、僕は扉を突き破って森に逃げた。 「二度と里に出て来るな!来ればお前等一族も子孫も滅ぼす!」 メスの言葉は解らなかったけど、僕と同じ怒りと憎しみ、それと哀しみが、切り取られた耳の奥の奥のずっと深いところで、響いていた。
- 完 -