「畜生! あの医者、粉薬はダメって言ったのに!」 俺は激怒した。自宅に帰り、薬剤袋を開ける。たかが風邪薬なのだが 「ああっ! 喉にはりついた!ウエッ…」 水ではだめだったか。と、そこに 「どうしたの?」 ピンクのパジャマを着た姉が自室から出てきた。 「粉薬が…それより自分のは?」 「これから飲むよ」 姉は多くの薬を慣れた手つきで取り出した。 「ねぇ、こんな多くの薬で生き永らえる意味あるのかな?」
- 1 -
あるだろ!って言葉は口から出なかった。 いつも部屋にいる姉。 学校にもろくに行けず、友達もいない姉。 薬でいつも眠たがる姉。 外の世界を知らない姉。 知っているのは、病院と薬のことだけ。 「ない…って言うわけ?」 「別に。意味はあるでしょ。 誰にとって意味があるのか、私は知らないけどね。 …あんたがどう思ってんのかなぁって、興味本位。 三人家族 って外で言ってるんでしょ?知ってるよ。」
- 2 -
「それは...」 俺は答えられなかった。事実、近所や職場に姉のことを話していない。それは母も同じだと思う。 姉はもう20年以上前から家にいる。いつでも家にいる。だから宅配便の受取などには困らないのだが、かさむ医療費は家計を締め付けていた。 「なんで私なんだろうな」 姉は歌うように言う。 「ひどい話よね。病院いって手術受けたら、そのせいで病気になってるの。薬害?でも結局薬漬けよ。どういうこと?」
- 3 -
「私ねぇ」 「この身体になってから、楽しいと思ったことないの」 洗面台の鏡に映った土気色の顔を見ながら、姉はぽつりと呟いた。 斜め後ろから見た姉の身体は折れそうなくらい細くて、触ったら崩れてしまうんじゃないかという不安に駆られる。だから俺は、姉の姿を見るのが嫌だった。 「私、死んだ方がいいよね?」 姉が振り返る。 「そんなこと、」 「ならどうして私のこと周りに言えないの?」 表情は、ない。
- 4 -
姉の事を隠す理由は自分でも分からなかった。 痩せて顔色の悪い姉がいる事が恥ずかしいとか、そういう事ではない。俺は姉が好きだし、死ねばいいと思った事など一度もない。それもまた母も同じだと思う。 「姉ちゃんの事で同情されたくないから、かな。それに姉ちゃんの事を同情されるのも嫌なんだ」 考えがまとまらないまま、そう答えた。 それを姉がどう思ったかは分からないが「そっか」とだけ呟いて部屋へ戻っていった。
- 5 -
姉の、か細く消えそうな背を見送りながら、俺は自分の言葉を反芻した。 姉のことで自分が同情されたくないと強く願うということは、本当は「哀れな立場にある自分」を自覚しているということだ。同様に、姉のことを隠してやらねばと意識するということは、それだけ姉のことを「可哀想な存在」と認識していることに他ならない。 穿った見方かもしれないが、それも真実の一面のように思えた。 吐き気がする、己の弱さと偽善に。
- 6 -
嘘をついたら悪い大人になるよ。 子供の頃に聞かされた、大人の嘘を思い出す。姉に嘘はついてない。けれどもう、励ます余裕はなかった。 本当に、吐き気がした。 俺は手元の薬を見る。 働きすぎの神経性胃炎を上司に心配されていたが、風邪で半分ほっとした。また今度手術を受ける姉のために、俺はまだ多くの営業をこなさなきゃならないんだ。 突然、飼い猫が鳴き出す。 姉の部屋からだ。 俺は嫌な予感がして、足を運んだ。
- 7 -
姉は、吐き気止めと睡眠導入剤とあとなんだかわからない薬を大量に飲んだようだった。空の薬のシートが床に沢山散らばっている。銀色や金色のシートは姉の部屋の床を飾り立てている。 良く見ると薬だけじゃない。手は血まみれのカッター。手首の傷を探すけれど見当たらない。ベージュの布団カバーが紅く染まっていく。うつ伏せの身体を仰向けにすると、姉は頚動脈を切っていた。 救急車を手配し、止血に励む。 「死ぬなよ!」
- 8 -
「お荷物なんて真っ平よ…これであんたも楽になる」 それが姉の最期の言葉だった。 俺は姉の体が冷たくなるのを、ただ泣いて抱き締めることしかできなかった。 「生き永らえる意味あるのかな?」 あの日の姉の問いが今でも耳に残る。俺は今日もスーツを着て仕事に明け暮れる。変わらない日常。続く日々。 答えは今も見つからない。 見つける為に今日も俺は生きている。 弱さと偽善を見透かされたあの日を胸に秘めて。
- 完 -