腕時計の電池が切れた。 仕方がないので外しているが、左手が軽い。腕時計を触る癖があったようで度々右手が行き場を失う。 長いこと使っているし、この際だから新しいものを買おうと思うのだが、雑事に追われなかなか店に立ち寄れないでいた。 「あ、」 またやってしまった。 駅に向かう途中、時間を確認しようとしてつい空っぽの左手首を見てしまう。 私は軽く舌打ちして、小走りで駅を目指した。
- 1 -
不安に息を切らせたが、駆け込んだ電車は一本前だった。感覚の外周がおぼつかない。腕時計が無い、それだけなのに。あったはずのエッジはなだらかに霧散して、かけようとした指はまた宙を切る。 よく見れば、左手首には時計の影が薄白く刻まれている。不在。そこにいたもの、あったもの。いろいろと無くしてきた。四角く人の詰まる箱のなか、垣を無くした感覚に向かい、たった今までそこに潜んでいた不在たちが攻めて寄せる。
- 2 -
不在に囲まれたら、全ての価値が裏返った気がした。 あるものとあったもの。 あるものが私を満たすはずなのに、あったものの方を愛おしく感じる。 無くしたわけじゃなく、自分から手放したものだって多いのに。 電車がいつもの駅に着く。見慣れた風景が、また価値を裏返した。確かに何かがある、という感覚に私は縋る。 ──縋る? なぜ縋らなければならないのか。 ないはずの腕時計が、微かな針の音を立てた。
- 3 -
さっきまで軽かった左手に、嫌な重さを感じる。 なんだろう、そう思うと右手は左手首を触っていた。不安や緊張、手持ち無沙汰。いつも左手の時計を触っていた自分に気づく。 また、針の音が聞こえる。 時を刻むのではなく、私をせめているかのように。 あったものたちの代弁ーそういえば、時だってもうあるものではなく、あったものだなーをしているかのように。 改札をくぐる。
- 4 -
「不在」という感覚──それが私を焦らせる。聞こえない針の音が聞こえる。早く、早く取り戻さなければ。 冷や汗をかきながら足早に構内を出ようとすると、急に左手首を掴まれた。まるで急所を突かれたかのように、心臓に鳥肌が立つ。振り返ると、そこにいたのは同僚だった。 「ああやっぱり。そんな急いでどうしたの?遅刻するような時間じゃないけど」 細い手首にはまった華奢な革ベルトの時計がいやに目に付いた。
- 5 -
腕にそれがあるだけで、賢明な判断が下せるか否かが一目瞭然な気がしてしまう。 同僚はいつも決まってこの時刻の電車で来ているのだろう。朝に会うのは初めてだった。本来なら私が不在の時間帯。 そこに紛れ込んでしまったのは、私を律するものに巡り会う必然が潜んでいたからか。 あまりにも切羽詰まった私を見て同僚は、掴んだ手はそのままに窮状を察した顔になる。 そして人心地がつく声で彼女は「時計」と言った。
- 6 -
「貸してあげる」 細い手首からするり、と革ベルトが外される。 それが左手首に巻かれてようやく、感覚の輪郭が戻る。潮が引くように、不在たちは再び息を潜めて隠れる。 「今日は外を回る日だから、ないと困るよね。私は大丈夫、ずっと中の仕事の日だから。帰りに返してくれたらいいよ」 微かな針の音は、確かに左手首から聞こえてくる。その音は、ついさっきまでそこにあった不在を、あっという間に忘れさせてしまった。
- 7 -
外回りの仕事はいつも以上にせわしなく、お昼までは時間を気にする猶予もなかった。不思議と、夢中で動いているだけで時間はぴったり予定に当てはまっていった。感覚的なものだろうか。それとも。 不在の代わり。 同僚が貸してくれた時計はFURLAの甘めなデザインのものだった。決して悪い時計だとは思わない。時間を確認することが出来る。そう、それが時計。 ただ、私の空いた穴を埋めてくれるものではなかった。
- 8 -
「お待ち遠様でした。使い込まれた良い時計だね」 近所の時計屋で電池交換をしてもらい息を吹き返した私の腕時計。二千円でお釣りが来た。こんなにも早く仕上がるのなら、さっさと持ち込めば良かった。 時間はつくるもの。 秒針が所定の位置で私の動脈を宥める。欠けていた重みを取り戻し、無意識を意識することもまた、無くなっていくだろう。 そしてまた、タイムレコーダーはギリギリの出勤時刻を刻む筈だ。
- 完 -