まだ五月も半ばだというのに、桃色の花はもう既に葉桜へと変わり始めている。川べりに植わった桜の木を見ながら、花の命というのも儚いものだなあ、などと思う。 それにしてもこれは見事な桜である。どうせなら先週に来て、この木陰で一杯やってみたかったものであるが、残念だ。それに尽きる。 「この木は」 背後から女の声がした。 「ずうっと昔から、呪いの木と云う噂があるんですよ」
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桜の精だと言われたら信じたかもしれない。振り返った時、桜が舞ったような錯覚を見たからだ。 風が長い黒髪を舞い上げるとサラリと落ちる。儚い美しさを身に纏う女性だった。 「あ…桜の樹の下には死体が埋まっている、とか言いますもんね」 俺がそんなことを答えると女性はふふっと微笑んだ。 「この樹はそうでなく……この街は初めてですか?何かお仕事で?」 儚く妖艶な微笑みに花見酒に酔ったような心地がした。
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「仕事半分趣味半分、かな、はは。カメラマンなんです。WEBコラムで葉桜特集しようかと…でも、呪いの木特集にしちゃおうかな」 冗談半分に明るくカメラを上げると、女性は顔を背けて枝垂桜にもたれた。そして語る。 「この川の上流は昔から身投げが多いんですけれど、不思議なことに…男の死体だけはいつも、この桜の根に引っ掛かって見つかるんです」 視線の先には、のたうつ様な桜の根が川の水面と絡み合っていた。
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「へぇ…あんまり気持ちのいい話ではないけど何か惹かれますね。」 ええ。と呟いて彼女は樹から身体を離す。 風が揺れる。 彼女が顔にかかる黒髪を払いこちらを向く。 ふっと目が合って慌ててすぐに逸らした。何かを話さねばと思った。 「もしかして、男たちはみんなこの桜の木の精に惑わされて留まっちゃうのかもしれませんね。 それほど美しい。危うい美しさだ…」 いつの間にか花がつき、樹は満開になっていた。
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俺はこの話しに興味を持ち、暫くこの街に留まる事にし近くに宿を取った。 朝、外の騒がしさで目が覚めた。窓を開け外の様子を伺う。葉桜になりかけていた桜が昨日より更に花を付け色を増していた。 俺はカメラを持って急いで外に出た。 既に警察やら野次馬でごった返している。 「何か、あったんですか?」 と、野次馬の一人に聞いてみた。 「いや、また死体がね。あれは2〜3日引っかかったまま沈んでいたな。酷いよ」
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知らない男だった。 思わず目を背けると彼女がいる。 その表情は無でなにを考えているのかもわからなかった。 「本当だったんですね」 「今年に入って初めてです」 彼女はうつむいていた。綺麗なうなじにどきっとした。 「行きましょう。ここは嫌だ」 彼女の手をぎこちなく取り、歩いた。 「この街から出てください」 不意に彼女が言った。震える声だった。 「私、いつかは貴方まで」 まさか。 「私は桜の精だから」
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桜の精…? まさかそんな、お伽話じゃあるまいし。 と彼女の話を冗談として受け流そうとしたが 先ほどまでの無表情の中にある、彼女の何かに怯える瞳を見ると何も言えなくなってしまった。 彼女は、亡くなった男性が桜が満開になった頃に街に来たこと、妻と二人で来たことをぽつりぽつりと話し 最後にもう一度この街から出ることを俺に促し去ってしまった。 見上げた先の桜の花と彼女の唇は同じ色をしていた。
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翌日、帰り支度を整えてもう一度桜の木の下に立った。葉桜だったはずなのに、見上げれば満開の桜。はらり、と花弁が頬を撫でる。最後にどうしても写真を一枚撮っておきたくて、ファインダーを覗き込んだ。 「どうして、来てしまったのです」 桜にもたれかかる彼女がいた。 彼女は憂える瞳をこちらに向けた。さらり、と黒髪が流れる。その儚い魅惑に取り憑かれるままにシャッターを切った。 その瞬間。 「さようなら」
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…? いつのまにか、彼女は消えた。 桜の花びらと共に。 不思議と、あまりおどろかなかった。 それがむしろ、自然な事のように思えた。 俺はこの街から去って行く。 彼女との出会いも、俺の人生の一ページにすぎない。 カメラを鞄にしまい、帰路についた。 そして、月日は流れ俺が彼女の事も忘れかけていたある日、家のインターホンがなった。 扉を開いた。そこには…
- 完 -