「兄貴、海連れてって」 「いいとも」 ジャバババ……。 「ほれ」 「なめてんの?」 兄貴はホースの水で作った水たまりを指差し、得意気な顔をする。 屋根のある駐車場の中とはいえ、蒸し暑く、冗談が癪に触る。 「まぁ、騙されたと思って」 「兄貴が先に入れよ」 「分かった」 兄貴は頷くと一旦家に帰り、水着に着替えて戻ってきた。 「じゃ、お先」 そしてそのまま水たまりダイブし、消えた。
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え…?マジで? 水たまりを覗いて、手を突っ込んでみたが、やはりただの水たまり。 「兄貴ー?」 ……おいおい…兄貴どこ行っちゃったの? …ぴちゃん! 飛び込んでみたが、やはり足先が濡れただけ。 兄貴は頭からダイブしてたな…て、いやいやいや、頭から?この浅い水たまりに??怖すぎる! どうする?どうする? 水たまりの前でウロウロしていたら …ツルッ 「あっ!」 僕は水たまりに、背中から倒れこむ──
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ザブン 深い深い青色、ブクブクと起こる沢山の泡、そして… 徐々に感じる息苦しさ。 ヤバい、窒息する!僕は慌てて水面まで泳ぐ。 ぷはぁ、と酸素を取り込む。間一髪。 それにしても、あんな方法で本当に海に行けるなんて…。信じられない。 「おーい!おせーぞ我が弟よー!」 振り向くと浜辺で兄貴が手を振りながら僕を呼んでる。 この状況が未だに飲み込めない。 兄貴って魔法使いか何かなんだろうか。
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僕は浜辺まで泳ぐと、肩にいつの間にか引っ付けたヒトデと共に兄貴の横に並んだ。 「兄貴、これどういうこと?」 「男が小さいことでガタガタ言うな。夏のバカンス、楽しまないと損だぜ?」 兄貴はヒトデを手に取ると、口に当てて息を吹き込み、プウと膨らませた。 風船みたく丸まったヒトデは、兄貴の手のひらでポンポン弾む。 「海といえばビーチバレー!さぁ勝負!」 「2人でバレーとか、何言ってんの?」
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「俺達の夏にできないことなんてない!」 兄貴が叫ぶと、ぼん、と勢いよくヒトデが空に跳ねる。慌てて後ずさる。ヒトデボールを目で追うと、強すぎる直射日光が僕の目を刺した。 「うわっ」 面食らって尻もちをついてしまった。ゆるい風が砂浜をさらって、指のあいだを過ぎていく。その白い砂をつまんで、本物だなあ、と思わず声が漏れた。 逆光に照らされた兄貴の笑い声が聞こえる。 「何やってんだ、弟。この間抜けめ」
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はて。ここで何やら違和感。何だろう。 とかく眩しく思考が遮られる。濡れた服が重い。あまりに太陽が強いので、海の中へ戻ろうかと思うけれど、水着がない。きょろきょろと日陰を探した。 「ええ? 影が無い!」 「夏だ、海だ、影は不似合いだ!」 兄貴は無茶苦茶な道理を吠える。誰もいない海辺で。 「裸になれよ、兄弟」 もう、どうなっても知らないからな。どうせ誰も来やしないんだ。僕は素裸になって海に飛び込んだ。
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はずなのだが。はてな、またしても違和感。 シュ、シュワシュワする……。僕の表皮でつぶつぶと気泡が踊り去ってゆく。炭酸風呂に浸かっているような……ごくり。ああ、分かった。これ本物の炭酸水だ。薄っすらレモンの味がする。兄貴の好きなキリンレモンだな。 二度目の水中ではいろんなことがどうでも良くなっていたからか、普通に呼吸をしていた。どうでもいいけど、出たら体が砂糖水でベタベタするな。 「おーい弟やい」
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「竜宮城まで競争な」 兄貴がニヤリと笑う。なんとその足は魚のそれであった。 まあもう、いろいろあっても驚かないのだが。 スイスイ泳いでいく兄貴に引き離されるし、炭酸の泡に囲まれてしまう。 「くそっ、卑怯だぞ!」 思わず目をつむった、その一瞬。 竜宮城は現れたのだった。 「ふふん、この兄が乙姫をナンパしてやろう」 兄貴、変なフラグ立ててんじゃないだろうか……。
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豪華絢爛な竜宮城で遊ぶ僕と兄。亀なんて助けていないのにもらった玉手箱。 これ、アレだ。これ、絶対アレだ。 不思議で刺激的な夏はあっという間に去っていく。それは、喉ごしのいいキリンレモンのように。 "まだ開けたくない"と駄々こねる僕をよそに、兄貴が玉手箱を開ける。白い煙に包まれ、夢から覚めた。 カレンダーが夏休み最後を告げている。後には宿題だけが残っていた。海へ逃げたいという僕を兄貴が励ました。
- 完 -