つり革あり、網棚あり、赤いシートあり。ここは電車の中のようだ。 乗車した覚えは、なかった。切符も買っていない。 ぼくは驚くより、電車の規則正しい揺れの心地良さにうっとりした。 ぼくの、正面のシートには、高校の制服を着た、先輩が座っていた。 先輩は、ぼくが高校二年のときに、近所のどぶ川に入水した。 随分、久しぶりに先輩をみた。葬式以来だった。変わらず綺麗な人だ。 「先輩、お久しぶりです」
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先輩は僕を見てすぐに目をそらした。 僕はこれは夢なんだと思い、先輩の隣に座る。 「先輩、これはどこに行く電車ですか?」 先輩は無言のまま席を立ち、離れたところに座り直す。 よく見ると、この車両には僕と先輩しかいない。 夢は都合よくできてるものだよな。 そう思い、先輩に会えた喜びをかみしめて、先輩の隣にまた座る。 すると、どこからともなく正面に車掌らしき人が立ちはだかり僕を睨みつけた。
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「切符を拝見」 僕はうろたえた。電車に乗った記憶がないのだから、切符を買ったかわからない。あったとしてもどこにあるか、わからない。 すると、横の先輩がスッと白い腕を突き出した。 「二人分」 先輩は静かにそう言った。 声は生前と全く変わらない。当たり前か。 「先輩」 車掌が納得して歩いて行った後、僕は僕の方を見ようとしない先輩に呼びかけた。 「なんであの時、電話に出てくれなかったんですか?」
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返答はなかった。また席を移動されてしまうかと思ったのに、先輩は席を立たなかった。 無言で、僕と反対側の窓を見ていた。 「先輩がいなくなってから」 僕も先輩と同じように窓の方を見る。 「先輩の言ってた通り、日常は変りませんでした」 外の景色は頭に入らない。 赤のシートと黒い制服から目が離せない。 夢でいい。先輩と話がしたい。 「でも僕は今でも、先輩に電話掛けたら出てくれるんじゃないかって…」
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思っているんです。あの時は、出てはくれなかったけれど。 思っているんです、先輩。 「先輩、あの日何があったんですか?」 そう尋ねると、先輩はようやくこちらを向いて「君は質問ばっかりだなあ」と言った。 「先輩が…何も答えてくれないんじゃないですか」 いつもそうだ。 少し微笑んで何も言わない。誰にも何も言わずに、近所のどぶ川なんかに入って逝ってしまった。 「君こそ、どうしてこんな所にいるの?」
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…どうして?電車に乗った覚えもないのだから、理由なんてありもしなかった。 「先輩、これは僕の夢ですよ」 だからきっと、もう会えないはずの先輩に会えた。先輩は何も言わず、窓の外を見つめる。 あの日、先輩が電話に出てくれていたら、僕は先輩に何か出来たんだろうか。 繋がるかもしれないなんて思いながら、どぶ川の底の携帯に繋がらない事実を、先輩がいないという現実を、思い知るのが怖かった。
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すっと白い先輩の腕が水平に上がった。その先は向こう側の窓の外を指している。 「あれ見て」 先輩の言われた通りに見ると、綺麗な川が広がっていた。どうやら今は長い橋の上を走っているようだ。 夕闇の中で琥珀のような雄大な川が広がっている。 夕闇? 今は夕方なのか。 ツキン、と頭が痛む。 「あれが貴方が来た所」 「え?」 先輩の声が微かに遠い。 「早く行って。もうすぐあの切符、偽物だと気付かれるから」
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規則正しかった筈の揺れが、 ガタガタと居心地の悪いものへと変わってゆく。 「行ってって、どこに…」 僕は車内に視線を配りながら辟易する。窓から川に飛び込むわけにはいかないし、車両の先は行き止まりだ。 これは…夢だろう? 何とかなれよ! しかしドア越しに迫る車掌の靴音が、不整脈な頭痛を助長させる。うろたえていると、ポケットから不意に携帯の呼び出し音が鳴った。 「出て。じゃないと後悔する」
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僕は震える指で通話ボタンを押した。 機械的な音声が流れる。 1件目のルス番電話ヲ再生しマス… 『…先にいっちゃって、ごめん。君のこと、好きだったよ……』 なんだこれ。先輩。 だったらなんであの時電話に出てくれなかったんだよ! 僕はいつの間にかあのどぶ川べりに寝転んで叫んでいた。 体じゅう泥まみれにして、携帯を握りしめて。 不在着信を知らせる画面には、先輩の名前が表示されていた。
- 完 -