聞き慣れた蒸気機関(スチームエンジン)の音が響く。倫敦の街を支える大機関(グランドエンジン)の駆動音。 街中に張り巡らされた蒸気導管(スチームパイプ)に蒸気が、通り始め熱を上げる。それと同時に冷気が街にうっすらと昇って来る。 気にしなければ気にならないが、敏感な者は目ざとく気になる。 大機関に合わせて動き始めた時計をみる。もうすぐ七時というところ。 「起きないと」 カノンは、呟いた。
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手早く着替えると、部屋の隅の甕に貯められた水で顔を洗い、鏡に顔を映して髪を整えた。美しい黒髪は東洋人の父からの賜物だった。風変わりな名前も仏様に由来するらしい。 集合住宅を出て通りで待つと、二階建ての乗合自動車が煙を吐きながらやってきた。カノンはそれに乗って職場に向かう。彼女は大機関の汽罐技師だった。独逸との戦争は長らく続き、男が次々と戦場へと送られる一方で、女は国内基盤を支えるのが仕事なのだ。
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職場に到着し、カノンはツナギに袖を通す。張り巡らされた蒸気導管を進むとそれは其処に有った。 大機関…グランドエンジン 巨大な金属の化け物には、無数の導管が接続し絶えず高圧蒸気を排出していた。 倫敦の蒸気供給を担うは大機関は人々の生活を向上させた。しかし、一箇所集中の都市機構は停止すると都市機能を麻痺させる危険性を孕んでいた。 それは予期せぬ事故だった。職員の些細なミスが大機関を暴走させた…
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大機関はその巨大な動力源を産むと同時に、高い圧力がかかる。 その為、担当する作業員は昼夜問わず圧力計を監視し、調整をしなければならない。 ところがその日は、担当の作業員がまだ経験が浅く、監視している最中にあろう事か居眠りをしてしまったのだ。 作業員が目を覚ますと、既に圧力メーターの針が限界を振り切っており、蒸気が漏れ出していた。 作業員が慌てて弁を触るも、高熱が弁まで伝っていて触る事が出来ない。
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次の瞬間、作業員は真っ白な蒸気に包まれた。 カノンも直ぐに異変に気付いた。大機関のB-35番バルブのモートン式弁の交換の為に閉じたはずの配管がガタガタと異常な振動で震え出したのだ。 カノンは急ぎ圧力制御室に走り、迂闊にも直ぐに扉を開いてしまった。高温の蒸気が一気に吹き出し、カノンは咄嗟に革手袋の手で顔を覆ったが、隠しきれなかった頬や首周りを真っ赤に火ぶくれさせた。 だが痛みを感じている暇は無い。
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「ボイラーを止めろ‼︎」 圧力制御室での調節は不可能と悟ったカノンは、電源室に雪崩れ込んだ。 「大機関を止める気ですか⁉︎倫敦の生産力を落とすなんて…」 「半日で復旧させる!帝国の戦力には大事ない!それよりこのままでは大機関丸ごと失われるぞ!そうなると数日の生産停止では済まない!早く‼︎」 詳しく説明する暇はなかった。 「…責任なら私が取る!」 「カノンさん…落ちません!」 ──残る方法は、一つ。
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──ボイラーから直接圧力を逃がす。 あぐらをかいた父の足が、幼いカノンの指定席だった。眼前に広げられた化け物の設計図を指差すと、星座でも教えるように父は何でも説明してくれた。目を瞑ればカノンの脳は、いつでもあの宙を描ける。 半日での復帰は無理としても、馴染みの機械工に頼めば新しいボイラーのあてもある。施設自体がおじゃんになるより損失は少ない。 カノンは爛れた手で、赤銅色の斧を握った。
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ボイラーは大機関の心臓だ。 そこから複雑に伸びる導管の内、大動脈に当たる一本。それを切り離せば、溜まった蒸気を解き放つことが出来る。 無論これは危険な作業だ。 導管に斧を入れた途端、高温の蒸気が一気に噴き出す。緊急用の耐熱服も簡素な物しかない。斧を握るカノンが無事で済む保証はなかった。 それでも彼女にとって、蒸気機関は守るべき存在だった。技師の誇りだけではない。亡き父との絆そのものだったから。
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この蒸気機関の設計と運用に携わったのが父だった。 汽罐技師として大機関を任されることになったとき、カノンは父の後を継げる喜びに震えた。 父の誇りが私の胸にも宿っている。カノンは説明の付かない勇気がこみ上げてくるのを感じた。 振り上げる赤銅色の斧。 大丈夫。全てうまくいく。 私はまだここで倒れるわけにはいかないのだ。父の愛した蒸気機関を、倫敦をこれからも見守らないと。 鈍い音が辺りに響いた。
- 完 -