闇市の暗い賑わいからやや離れたところにある、倒壊寸前のマンションの螺旋階段を昇りながら、F氏の冷たい目を思い出していた。 誰かの叫び声も、壁のステッカーも、下劣な落書きも、もう何十年も前からあるものだ。 307号室。呼び鈴はない。 固い灰色の扉を叩くと、開いた隙間からF氏が顔を覗かした。 外見上の年齢は四十から五十。彫りが深く鼻梁が細い。相変わらずの痩せぎすで、女にもてるには少し冷た過ぎる。
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F氏は扉を開き無言で中へ入るよう促した。 「あんたいつ見ても洒落てるな」硬い空気を和ませる為の軽口だが私の本心だった。 今日のF氏はイタリアンマフィアを思わせる細身のスーツ、胸に一見白い薔薇に見えるようにハンカチーフを挿していた。 だが彼は無駄口は叩かない主義なのか、何も言わず本題に取り掛かかるよう促した。 私はシャツの胸ポケットから写真を取り出し、F氏へ差し出した。 写真に写っていたのは女・・・
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写真を受け取ったF氏の眉間に、皺が寄った。元々鋭い眼差しが輪をかけてきつくなるが、それは彼が物を注視する時の癖だ。 隠し撮りされていると知らない女が華やかに笑っている姿を、たっぷり三分は眺めたF氏がこちらに向き直る。 「何処で見つけた」 「地下街の店。そこで歌姫をやってたが、最近とある組織のお偉いさんのこれになったらしい」 小指を立ててみせると、F氏の灰色の瞳が光る。 今、計画が練られ始めたのだ。
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「今はその男が用意したマンションにいる筈だ。写真の裏に住所を書いといたよ」 写真の裏を確認したF氏は、スーツケースから封筒を取り出して差し出した。私は厚みだけ確認して懐に収める。 「じゃ、私はこれで」 立ち上がろうとする私に、F氏は封筒をもう一つ投げて寄越した。 「もう少し働いてもらおう」 前金で半額、依頼達成で全額というのが業界のルールだ。 「構わないが、次は何を?」 「この女の、兄を捜せ」
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「あれに兄がいたのか」 F氏は軽く頷いた。調査中、彼女に身寄りがあるように見えなかった。 「兄を見つけてどうするつもりだ」 F氏は鉄面皮のまま、写真の裏の住所に考察を重ねていた。 「お前には関係のないこと」 もちろんそうだろうさ。私はF氏の依頼を受け入れるかどうか、少しの間だけ逡巡した。先の一件から、今回の依頼は難儀になると予想がついた。手の中の封筒の重さを確かめ、F氏に了承すると部屋を後にした。
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車に乗り込み、タバコを取り出す。 火をつけ、深く煙を吸い込み限界まで吐く。 F氏と会うのは神経を使う。 私がF氏と初めて会ったのは、10年ほど前になる。 今ではお得意様だが、今でも私は彼のことを深く知らない。 知らない方が良いのだ。 「さて、兄を探すかな」 女が働いていた店のオーナーが何か知っているかもしれない。 タバコを灰皿に押し付けてエンジンをかけ、車を地下街に走らせた。
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店を出ると、夕日は既に沈んでいた。人通りが少ないからか、嫌に静かだ。 車に戻りながら、オーナーの言葉を考える… 「彼女にお兄さんはいませんよ」 彼が嘘を言っているようには見えない。彼女に兄はいない…どういうことだ?分からない。しかし、前金を貰ったからには探し出さなくては。それがこの業界の暗黙のルールだから… そうして再び車にエンジンをかけ、夜の街に走らせた。
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「こんなところにいたのか。探したよ」 私の声に振り返ったのは、酷く骨張って腰の曲がった小男だった。写真の女とは似ても似つかない醜悪な顔つきだ。 「お、お前もしかして、え、Fの…」 夜のネオンに照らされた男の体は小刻みに震えていた。 「なんだ、分かってるなら話は早い。少し顔を貸してもらおうか」 男は何かに脅える様にねぐらを転々としていた。 私は抵抗する男を、無理矢理車のトランクへと放りこんだ。
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運転席に戻ると、F氏の留守電に「依頼品を入手しました」とメッセージを残した。 そのままF氏からの連絡を待つ。 情報が少ない中であの男を見つけるには様々な事があったが、そんな事よりも、3ヶ月もF氏を待たせてしまった事の方が戦慄物だ。その点を考えるだけでも震えが止まらなくなる。 携帯が鳴りビクついた。 F氏だ。 「待ち合わせ場所を言う。メモなどしないで覚えろ」 「了解」と返事しながらエンジンをかけた。
- 完 -