大嫌い以上の

…ダメだ。 覚悟を決めて、フェンスを越えてここまで来たっていうのに、足が動かない。 …どうして。 こんなにも、この世界が大嫌いなのに、あと一歩なのに。 私の心の中に、矛盾が生まれた。

ウサナギ

11年前

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虐待というものはひどく曖昧なもので、「証拠」といえるものがなくてはいけないらしい。 母はいつからそうなったのか、分からない。きっと父が交通事故でしんでからだと思う。気づいた時には、既に手遅れだった。 母が私に向けた凶器は「言葉」。 私の否定、否定、全否定。 全てを拒絶し、破壊した。 私は大人になった。 計画通り、今日私は、ここから逃げる。 逃げられる。 そう思った、はずなのに。

コノハ

11年前

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怖い。 はっきりそう思った。 何が?高いのが?落ちるのが?痛いのが? はっきりしないのは理由の方。 「このままだと、母の行った通り、意気地なしよ?」 自分に言い聞かせるが、やはり足は動かない。 母に愛想が尽きたはずなのに、なぜか母との楽しかった思い出が脳裏を横切る。 「なぜ?あんなに母を嫌いになったのに、どうしてまだ母の思い出など引きずるの?」 またもや、声に出しても答えがでない。

Dangerous

11年前

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『よくできたね、渚!』 私がひらがなを覚えたとき、母はそう言って褒めてくれた。 『こらっ!野菜を食べなさい渚!』 私が緑色野菜から逃げたとき、母は鬼気迫る表情で私を追いかけた。 『がんばれー!渚ぁぁあ!』 私が運動会で走るとき、母は大声で応援してくれた。 『帰ろっか、渚』 私が道に迷ったとき、母は必ず私を探し出してくれた。 それなのに•••。 どうしてなの、お母さん•••。

11年前

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フェンスを越える勇気はあったのにどうして今になって優しいお母さんを思い出してしまうんだろう。 そのときポケットの中の携帯が震えた。 電源切ったはずなのに…。ポケットから携帯を取り出すと電源はやはり入ってなかった。 私はまだ越えたくないのかな。 優しいお母さんはもういないのに。 携帯がまた震えた。非通知の電話? どうして? 私は不審に思いながら通話ボタンを押した。 『消えたいなら変わってあげる』

11年前

- 5 -

「だ、誰ですか…?」 震える声で私は相手に問いかけた。 『消えたいなら変わってあげる。』 私の問いには答えず、相手はもう一度同じ言葉を繰り返した。 消えたい。 本当に、私は消えたいのかな。 「き、消えたくないって言ったら?」 不意にそんな言葉が口を突いて出た。 『…消えたくないなら変わってあげない。』 長い静寂の間に相手は言った。 ぷつん。電話は唐突に切れた。

asaya

11年前

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消えたくない。 消えたくない? そう。そうだ。 私はまだ消えたくないのだ。 ずっと消えたいと思っていた。 子どもの自分には何もできず、消えるしかないと思ったから。 でも今は違う。 何もできなかった子どもではないはずだ。 母が私に向けたのはSOSではなかったのか。 私は携帯を強く握りしめ、もと来た方へ走り出した。

ミズイロ

11年前

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「ただいま」 私の口から出た言葉の余韻と、カチ、カチ、と時計が鳴る音だけが静かに響いた。 母は私に応えようとしない。重い沈黙に、胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。 でも私はもう、小さな子どもじゃない。お母さんが、大嫌いで大好きなんだ。お母さんは、どうしようもなく、「私のお母さん」なんだ。何があったって変わらない。私はこれまでも、これからもお母さんを愛さずにはいられないんだ。 「ねえ、お母さん」

伊藤

8年前

- 8 -

私はソファに座る母を正面からそっと抱きしめた。 「私ね、さっき死んじゃおうとした。消えちゃおうとした。だって、お母さんが大嫌いだったから。私を否定する言葉が嫌だったから。でもね、それ以上に私はお母さんが大好きなの。大好きだから、消えたくても消えられなかったの。お父さんが死んじゃったの、お母さんすごく悲しいんでしょ?だったら、私じゃ、ダメかな?」 その言葉に、母は──

詩夢

8年前

- 完 -