ラプラスのひと

「正n角形の美しさといったら…」 「やっぱ六角形だろさ」 「いやいや真に美しいのは正方形」 「正65537角形を忘れとるぞ」 何やら学者が話している。カフェの壁越しに話を盗んで聴く。相変わらず意味不明だ。こんな話はしていて楽しいのやら。 ここは二つの大学と一つの研究所の中央に位置するカフェ「ロギオシア」。僕も大学生としてここの常連の一人だが、今日は何だか胸騒ぎがする。何かがおかしいのだ。

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いったい何がおかしいのだろう。 顔は洗った。歯は磨いた。朝ごはんは食べた。レポートは提出した。うん。何も問題ないじゃないか。 無理に自分を納得させ、カフェ「ロギオシア」を出ることにする。こんな日は、気分転換に散歩でもした方がいいだろう。 「お会計、350円になります。」 ポケットに手を突っ込んだ俺は、今、胸騒ぎの原因がハッキリとわかった。 ・・・財布忘れた。

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逃げ出したいけれどやったら食い逃げになってしまう。動け、頭。 「あ、あれ?どこだ…?」 マジかよ、と意識的に小さく呟いてから反対側のポケットや鞄の中をあさる。すぐに背後に客が並ぶ気配がして、焦るポーズをして粘るのは限界だとわかった。最後に苦笑いをして店員をうかがう。恥ずかしくて何も言えなかった。 「お客様、いつも当店をご利用いただきありがとうございます。次回、来店された際にお支払い下さいね」

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機転のきく店員さんの、なんとも優しく清々しい笑顔。焦っていた僕に対してその表情は鎮静剤の役割をしてくれ、五臓六腑に染み渡る。 「ありがたいです、じゃあ、また」 小声で言ってそそくさと店を出る。 学者たちよ、本当に美しいのは正n角形でなく卵形だよ。さっきの店員さんの顔の輪郭を思い出し、僕は足取りも軽く歩き出す。 近いうちに必ずまたカフェへ来よう。 ただしあの人、男だけどね。

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数日後、僕は約束を果たそうとロギオシアに向かっていた。 すると途中であの学者達とすれ違った。 彼らはまだ正多角形の美しさを競って論じあっていた。 「君の言う第5のフェルマー素数は誤りだ。全くもって美しくない!」 「いや!n=5にも素数は…」 意味不明に拍車が掛かってる。 〈全ての頂点は一つの円周上にある〉 そんなシンプルな答えではダメなのか? 「いらっしゃいませ」 僕はカフェの扉を開いた。

真月乃

11年前

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「あのー、先日財布を忘れた…」 「あ、そろそろいらっしゃる頃だと思ってました」 「へ?」 なんと、店員さんは僕がここに来る事を予知していたかの様だった。 「何で僕が来るって分かったんですか?」 「ん?ああ、単に計算から導いた結果ですよ」 「計算?」 「貴方の服装から、貴方が大学生だと仮定して、先日の持ち物から通学までの時間と講義の時限、それに先日の代金も考慮すると…大体今日当たりかなと」

hyper

10年前

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「計算で未来を…」 「実は私、ラプラスの悪魔なんです」 店員さん、お前もか。ラプラスの悪魔は昔の数学者が唱えた決定論上の概念の一つだ。こんな冗談を言う人は、正n角形好きの学者たちと同類に違いない。 「よく言うわね」 別の店員が割り込んできた。彼女は私に会釈してから「今日いらっしゃるのを予想したのは私なんですよ」と言った。男の店員が苦笑している。 「どうして予想できたんですか」 「何となく、ですね」

hayayacco

10年前

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ふっと、肩の荷が降りたような気がした。 「では、ラプラスの悪魔というのは」 「こいつのこじつけですよこじつけ。適当なこというんだから」 なんだ。今までの正n角形談義に拘っていた僕が馬鹿みたいじゃないか。 「私の予感って結構当たるんですよ」 神妙そうな顔で彼女は語った。やれやれ。どれほどの計算を催したとしても、女の勘にはかなわないというわけですか。これではラプラスもびっくりだ。

aoto

10年前

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ははは、と笑いながら、胸を撫で下ろす。 いや、待てよ。その感触はおかしい。僕は確かに胸ポケットに── まさかと思い、服のあちらこちらを叩く。暫く試した後、僕は全てを悟って口を開いた。 「ところで、ミス・ラプラス。」 後から出てきた店員が、くすりと手で口元覆いながら応答する。 「ええ、なんでしょう?」 「僕が今日も財布を忘れていることも、始めからご存知でしたね?」

Tap

10年前

- 完 -