なあ、あんた、一つだけお願いがあるんです 最期のお願いです、聞いてちょうだい あのね、私の体についてるこの器械、はずしてほしいんです もう、しんどいんです、疲れてしもたんです 知ってます、あんたがどんな姿でもええから私に生きとってもらいたいて思てはること ほんとに申し訳ないと思てます でも、眠りたいんです、休みたいんです 「あかん、それはあかん、いくらあんたの願いでもよう聞かん」
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ヤエとシズは老人ホームで知り合った。 二人とも連れ合いを亡くし、ヤエには子どもがおらず、シズは子どもと疎遠だった。 端から見れば、孤独な老人二人が身を寄せ合っているだけなように見えたかもしれない。 だか彼女たちは、お互いを長い人生の中で初めて得た親友だと感じていた。 友を持つ余裕すらないほど、二人とも辛い人生を送ってきたのだ。 ある日、シズが突然倒れた。 ヤエはその日から毎日病院に通った。
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「調子どうや?」 「ぼちぼちやな」 「これ、あんたの大好きなおはぎ。今朝、山ちゃんに調理場借りて拵えたんや」 「すんまへんなあ」 シズは一口だけ食べると元に戻した。 「それとな、ほらこれ。途中の散歩道で摘んできた、秋桜やで」 新聞紙に包まれたその薄桃色の花を見たシズの顔はぱっと輝いた。 「一番好きな花や。これみると、幼い頃の律子を想い出すねん」 律子とはシズの長女の事だ。確か九州に嫁いだ筈だった。
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「律子が小学校に入りたての頃や、誕生日のお祝いや言うて他所の庭に咲いてた秋桜を勝手に摘んできてなあ」 何度も聞いた話だが、嬉しそうに話すシズを見ているとヤエも幸せな気分になれた。 シズがホームに入所してきた時、付き添ってきたのが律子だった。週に何度も訪ねてきて、やがてヤエとも親しくなった。 しかし、結婚してからは全く姿を見せていない。遠方に嫁いだとはいえ、手紙が来た様子もなかった。
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「便りのないのは元気な証拠、て言いますやろ。律子には律子の人生がある。あの子が幸せに生きててくれたらそれだけでええ」 皺だらけの小さな骨ばった手をギュッと握り、シズは呟いた。 「まさかこの時代にいびられることもありますまいに。あちらさんはよう出来たお人やさかい」 ヤエもシズも、決して幸福な結婚生活を送ったわけではなかった。恋など知らずに嫁いだ時代だ。だからこそ二人とも律子の幸せを強く願っていた。
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「ほなあれやな、律子さんに私らの分まで幸せになってもろて、多すぎるようやったら、お孫さんに分けてあげてもろたらええな」 「ほんまやな、けど私らの幸せてそんなにあるかいな?私は今のままで十分幸せやで。おはぎも美味しいし」 「そやね。私も幸せや。あんたとこーやっておしゃべりしてるのも楽しいし」 「もーやめてよ恥ずかしいわ。けど、ありがとうな」 「いやいや、長生きしてよ。律子さんに幸せ回せんなるけど」
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二人はケラケラと笑い合った。 「けほっけほ」 「大丈夫か、先生呼んでこよか」 突然むせるシズにヤエは慌てて立ち上がる。 「大丈夫、大丈夫。この時代便利なもんで、ベッドの横にな、ナースコールなんてもんがあるんや」 シズはむせ返りながらもニコニコ笑って震える手で指差した。 心配させまいと気丈に振る舞うシズの手をヤエは黙って包み込んだ。 「大好きなシズさんに私の人生分けてやるわ」
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律子が強張った表情で部屋に入って来た。 シズがよく律子の小さい頃の事を話していたので、ヤエも懐かしいような気がして思わず話しかけたが、律子はヤエとあまり目を合わせようともせず、形式的な挨拶をしホームの手続きを済ませると即座に帰ってしまった。 人にはそれぞれ事情があるのを、勿論ヤエも解っている。ヤエは律子を責める気など毛頭なかったが、律子は母親に全く会いに来なかった負い目を感じているのかも知れない。
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それでもヤエはお節介を焼かずにはいられなかった。老体に鞭を打ち、なんとか律子に追いついた。 「律子さん!今幸せか?」 律子は背を向けたまま答えない。 「あんたが幸せに生きる事がシズさんの希望や」 「私は……」 「会いに来てくれてありがとう」 律子はスーツの袖で涙を拭うと無言でタクシーに乗り込んだ。 「なあシズさん」 やっぱ、この前のあんたの最期のお願いは聞けんわ。今度律子さんに頼みい。
- 完 -