ユノのハチミツ

しんじゃった。 妹は腕のなかでぐたりと首を垂れていた猫をまるで玩具を扱うように放ってから、光のない目で呟いた。僕はあまりにも狂ったその様子に、ひゅ、細く息をのむ。握りしめた手のひらに、不快な汗が滲んだ。 「おにい、ちゃん」 暫く惚けていた妹がふいに視線を泳がせてから、その両の瞳でぼくを捉えた。恐怖と焦燥が入り混じって、視界が醜く歪む。彼女の足もとで、心臓をとめた猫が笑った気がした。

12年前

- 1 -

僕が母さんを殺してから二日後、妹が狂い出した。 狭いマンションの一室。 腐臭と、錆びた鉄に似た血の臭いで充満した部屋で、妹は飼っていた名前のない猫を殺した。 「おにいちゃん、どうしようか。 猫、死んじゃった」 殺した猫を見ずに、死んだと困惑するフリをする。 「とりあえず、手を洗ってきて。 猫は母さんの上に置いておこう」 「そうだね。 ねぇ、おにちゃん」 「ん」 「お腹すいたね」

あさき

12年前

- 2 -

「ねえ、おにいちゃん。 猫って美味しいのかな?」 妹は僕に尋ねてきた。 「美味しくないよ。きっとね。」 そう僕は答えながら妹の頭を撫でた。 妹は次の質問をした。 「じゃあ、お母さんは美味しいの?」 「美味しくないよ。きっとね。」 僕等に虐待ばかりしてた母さんなんて美味しいわけがない。 口に含むことさえしたくない。 「ユノはね、ハチミツみたいな味がすると思うの。」 妹は嗤った。

11年前

- 3 -

思わず涙を流す 「どうしたの?」 「パン、買ってきたよ」 悔しいんだ 悲しいんだ 「パン大好き!」 無邪気な笑顔は変わらない 誰が壊した 僕、母さん 「明日は猫食べよ」 誰が、壊した 「なんでまた泣くの?」 心配する妹に何も言えない だって、あんまりだろ 「おにいちゃん!」 僕は母を殺したけど理由があった でも、妹が猫を殺したことに理由はない 何で平気なんだ 妹が恐ろしくて悔しくて僕は妹を抱きした

紫乃秋乃

11年前

- 4 -

狂わせたのは、壊したのは僕と母さん。 いいや、妹は母さんから虐待されていたときから壊れていた。 僕が母さんを殺したから、妹は自分の存在意義を見失ったんだ。 母さんから殴られることで、痛みを感じることで、妹は生きていられた。痛みは生きている証だったんだ。 だから猫を殺した。 たぶん、僕は、きっと、 いつか、妹に殺され…… そうならないように、僕は妹を守る。 母さんから妹を守ったんだから。

11年前

- 5 -

妹が猫を殺した晩、僕は不思議な夢を見た。 母さんが優しく微笑んでいた。細い色白の指がそっとのび、まだ幼い僕の髪を手櫛ですくう。 「お兄ちゃんもユノちゃんも、パパ似の素敵な髪の毛ね。真っ直ぐで、ツヤがあって……」 横で寝息を立てる妹に蹴られ、僕はそこで目覚めた。 そして、思い出す。遠い日に僕らは確かに愛されていたことを。 母さんが豹変したのは、父さんが死んでから──暴力を振るっていたあの男が。

- 6 -

暴力は時として一つの愛を作る。 母さんは、父さんが生きていた時の方がよく笑っていた。 きっとあの時、母さんは僕達を護ることを使命としていたのだろう。 まだ生き甲斐があったのだ。 父さんが死んでから母さんは、お酒を呑んでは「ごめんなさい」を繰り返し、罵声を浴びせながら僕と妹に手をあげた。 「お前らがいなければ、私は殺人者にならなかった!」 今でも僕の脳裏にその言葉が焼き付いている。

sm

9年前

- 7 -

「愛?いらない」 くだらない、何だこれ、反吐が出る。うんざりだ。 酷く喉が渇いていた。けど、丁度妹が脚にしがみついていて、僕は暫く寝顔を眺める。この春から寮付きの高校へ入り奨学金とバイトと、そしていつかは妹を引き取って暮らすはずだった。何が、狂った?狂ったふりなんて。そういうのを望むのは、傍観者だけだろう。生き延びたい。 そっと布団から抜け妹へ手紙を書く。僕はあの世か刑務所か何れ、いなくなる。

- 8 -

妹と暫しの別れだと思うと手紙の一言一言に熱が入る。 ──だから妹がふらりと僕の背に立った事に気付くのが遅れた。重い物で殴られて視界が滲む。 「おにいちゃんは……」 仰向けに倒れた僕の目に妹の顔が見える。……泣いている? 「ユノの為に生きなくてもいいんだよ」 それだけ言うと妹は立ち去った。意識が朦朧とする。誰かが玄関を出て行く音が聞こえた気がした。 後から来た救急車は最後に妹が呼んだらしい。

ゆりあ

9年前

- 完 -