深い夜の闇に一際鈍い光を放つ紅い提灯。 そしてどこからともなく聞こえてくる笛太鼓の音。 左右の壁には、商品のように、囚人のように柵に囲まれた美しき艶やかな遊女たちがその細く白い腕で手招きをしている。 吉原桃源郷。 女と男の欲が渦巻く街 男に買われていく女達が荒んだ心の奥底で夢見ているのは、この檻から出してくれる殿方といつか出会うことだけ。
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お兵(おひょう)もまた、遊女の一人だった。夜ごと格子付きの見世に飾られ、きせるを吹かす毎日。体を売られて遊女になったが、日に日に心が廃れていく一方だ。 お兵は未だ客をとったことはなかった。 決して見目が悪いという訳ではない。どちらかと言えば、可愛い顔立ちだといえるくらいだ。艶やかな黒髪に、細い首。紅の着物の似合うことはお墨付きである。 「ちょいと、お兄さん。上がっていきなんし」
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よく見かけるような服を纏っているこの平凡な男、名を源五郎という。見た目は冴えないが義理と人情厚い男である。だがいつもどこか抜けており、今日も道に迷ってしまったらしい。 迷いに迷って辿り着いたのがここだった。 妖しくざわめく道を進んでいるとなにやら透き通る美しい声がした。 はっと顔をそちらに向けると、なんと自分に手招きをしているではないか。
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気がつけばその声の方へ、不思議と体が引き寄せられている。 ・・・と、その木の柵の前で、源五郎は我が目を疑った。 「なんとっ、あんた、狐じゃあねえか!」 実は幼い頃からこの源五郎、妖をみることができるという特技を持ち合わせていた。 艶やかに着飾ってはいるが、今確かに目の前にいるのは獣、妖狐であった。 お兵は少し眉間に皺を寄せた。小声で囁く。 「・・・あんさん、あたいの本当の姿がみえるのかぇ。」
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源五郎はまさに狐につままれたような顔になった。それが妙で可笑しいのか、お兵はくすりと嗤う。しかしそれはどこか陰のある微笑だった。 「…なら、あたいのこの首輪が見えるかぇ?」 源五郎が目を凝らすと、なにやら不思議な文字の書かれた首輪が繋がれていた。普通の人間には見えないであろうそれは、重々しく妖狐に絡みつく。 「人を化かす狐がさ、こんなもので人に化かされ飼われてんのさ。嗤いたきゃ、嗤いなよ」
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はっ、とお兵はどこか諦めたように嗤い、寂しそうな顔をしたように源五郎には見えた。 「なら狐、あんた、俺と共に来るかい」 気がつけば、源五郎はそう言葉を滑らせていた。 一瞬二人を囲む空気が凍ったが、お兵はひらひらと手を振って深いため息をついた。 「あの欲深い人間が、そう簡単に獲物を逃がすとお思いかい?それに、あたいは妖狐と言えども遊女なんだ。一人の男と生涯を共にするなんざ、夢のまた夢だよ」
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それは確かにそうだが……と源五郎は言葉を濁らせた。 だが、人情深い源五郎には、目の前の囚われの妖狐を放っておくことは出来なかった。 「なら、俺があんたを買う」 お兵は、思いがけない、と言うような顔をして源五郎を見、次の瞬間、腹を抱えて嗤い出した。 「あんた、狐と知って、あたいを抱くのかぇ?酔狂なこって」 言って、更に嗤い続ける妖狐。 源五郎は何故だかムッとした。 「……悪いか?」
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狐と云うものは人間とは違い、年を重ねれば重ねるほど艶やかな化姿へと変化してゆく。妖の首輪で捕らえたところで両者の生きる時間は決して交わるものではなく、身体を重ねてなお契りにはなり得ない。 お兵は客をとらぬのではない。とれぬのである。 「あたいはしがない客寄せさぁ。これまでも、これから先も、ずっと」 「あんた、ほんとにそれでいいのかい」 お兵は答えなかった。 遊女となった女狐の、最後の矜恃であった。
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「真心無くば寂しかろう」 源五郎の言にお兵は目を見開いた。 「真心?」 吉原の遊女、ましてや妖狐に真心を説くお人好しに、阿呆ねぇと、笑って笑って…ほろりと涙が零れた。 灯火にきらりと滑るそれを、源五郎は拭ってやりたくなった。格子に邪魔されず。 それがお兵の矜恃を傷つけても、構うものかと吹っ切れた。 「決めた。あんたを身請ける」 この寂しい妖に出会う為に、俺はこの目を持って生まれたんじゃねぇかな。
- 完 -