ダークシティの波止場にて

何かが囁いた。どこか遠くの、波止場のような場所。風が強い。 まるで足かせを嵌められているかのようにゆっくりと男は私の方に近づく。 「何を見ているんですか」と男は言う。 「海を、眺めているんですよ」と私は言った。そう、海、を眺めているのだ。 「ふむ。でも一体どこにその海、があるというのです?」 確かにそれは単なる灰色のうねり、と言っても良いかもしれない。雲と海が境目なく広がっているのだ。

autumn

3年前

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「あなたには見えないのでしょう」と私がせせら笑うと、男は目に見えてむっとした表情になった。 海、は比較的穏やかに波を運んでいた。私はこの波止場で、一体この波はどこから来たのか、を考えるのが好きだった。 「海にはいい思い出がない」 男は吐き捨てるように言った。 正直なところ、それは私にあまり関係がなく平たく言ってしまえばどうでもいいことだったけれど、それを悟られないように私はそうですかとだけ答えた。

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男は語り出した。 「海は、子どもの頃、広いと思っていました。ですが、同じような光景が続いている。同じように見えるということは、海は狭いと感じました。子どもの私は、絶望しました」 私は雲と海の境目を遠く見据えた。 「果たしてそうでしょうかね。私が見ている海は、限りなく広いですよ。無限個に近い波について考えるとわくわくするものですが。世界に境目なんてないのです」 波止場のロマンを、つい語ってしまった。

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これ以上話しても解り合えないと思ったのか、男はそれからしばらく黙っていた。 波止場は再び波と風の囁きに包まれる。しかしその静寂は束の間だった。男は長いため息の後に続けた。 「ならばその、海、に出てみてはどうです?」 男の言葉に、私は少しだけ耳を傾ける。 「沖に出て、海の真ん中に立てば、波止場からとは違う景色が見えるはずですよ」 私は男の方に向き合った。 「貴方が連れて行ってくれるのかしら?」

Re: member

3年前

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「本当に、行きたいのなら」 やけに爽やかに、すっと海に溶け込んだ言葉に、心の柔らかい部分が恐れをなした。 「でも、行ってみたら、貴方の言う通り、なにもないかもしれない」 果てしない海、私を包んでくれる海、けれど、どこにも続いているということが、どこでもないということだとしたら。 「こうやって、灰色の水を見ている方が、なにもない」 意味ばかりが全てじゃないと反論する私を、今度は男の方がせせら笑った。

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「……どうやって行くの?」 私の言葉に男はまた口角を歪めた。この人の笑みはあまり、好きじゃない。どこか本物ではない気がしてしまう。そもそも、ここにら本物など無いのかもしれないが。 「舟、だよ」 私の口から「え?」と声が漏れた。舟なんてないのだ。この波止場には、海に出る術なんてない。 「そんなものがあったら少しくらい怖くても海に出ていたわ」 男はまた笑った。君には無理だろうと。

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海に出てみろと言ったかと思えば、お前にそんな勇気はないとせせら笑う。 なぜ邪魔をするのだろう。私の関心の範疇からはまるで外れた場所にいたはずの彼の存在が、段々と私に食い込んでくる。私という人間を侵し始める。そのことが気持ち悪かった。 この男とはまるでそりが合わない、と感じた。それは向こうも同じだったろう。 だが彼はなおも言葉を続けた。 「舟を出してあげましょうか。私は舟を持っていますから」

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「海が嫌いな人が、舟は持っていると言うの」 釈然としない思いで喉元まで塞がるようだ。第一彼にはこの海さえ見えていないと言うのに。 「仕事だから、と言うだけですよ」 ふい、と顎を外方へやり、男が言った。何でもないことだ、と言わんばかり。 「私なら、嫌いな場所を仕事場に選んだりしない」 「自分で仕事を選べるのなら、あんたは倖せ者だ」 男がせせら笑うと、空と海の境界が突然くっきりと分かたれた。舟だった。

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「やはり、貴方は能力者だったのね?」 目の前に出現した不思議に対して自然と私の口から流れたその言葉の意味を私自身が理解できなかった。 「能力者とは、これまたなつかしい響きですねぇ〜?」 男は相変わらずの笑みを浮かべながらそう言い「貴女がまるで記憶を取り戻されたみたいに思える。でも、そうではないのでしょう。悲しいですけれど」と続けた。 何も答えられない私に男は舟へと誘う仕草をし、私は歩を進めた。

- 完 -