食事のマナー

ゆらゆらと眼前を揺蕩う淡い光の球は、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している。足許に広がる闇は深く、まるで大きな魚が私の事を飲み込んでしまおうと口を広げているかのようだった。 何時からこの場所に居たのかは定かでない。気がついたら、としか言えないのだ。 「……早く、家に帰らなきゃ。」 私は行き先も決めずに歩き出した。

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私は足元に広がる闇の湖の上を、歩いた。 最初は心許なかった。家とこの広大な空間がどう繋がっているのか不安だったからだ。だけど、歩いていくうちに、そんな心配事はどこかへ消えてしまった。 目指すところより、今歩いている時を楽しむようになったからだ。楽しんでいる内に気付いたら家、というのが理想的かな? そうこう歩いている内に、いつの間にか、足元の闇は透明さが増して来て、遠くから何かが聞こえてきた。

望月 快

11年前

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音のする方へ歩いて行くと湖面にドアが立っているのを見つけた。 近づいて耳を寄せると、向こう側から賑やかな話し声と音楽が聞こえる。 誰かいるなら帰り方を教えてくれるかもしれない。私は思い切ってドアを開けてみた。 ドアの向こうは、何処か洋館のようだった。花の飾られたダイニングテーブルには皿とグラスが並び、壁際で回るレコード盤はノイズ混じりの音楽を奏でている。 なのに、そこには誰もいなかった。

hayayacco

11年前

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歩き疲れてお腹の空いていた私は、誰に断るでもなく目の前の椅子に座った。グラスに注がれた真紅のワインと、湯気の立ち上る暖かそうな料理の品々。銀のナイフでローストビーフに切れ込みをいれていると、ふいにドアがノックされた 家主が帰ってきたのかも 私は小さく切ったお肉を慌てて口に放り込み、入ってきたドアとは反対側の扉に駆け出した 私が扉の影に隠れるのと、誰かいますかーという声がしたのは同時だった

日笠彰

11年前

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こっそり見ると、ドアのところにサラリーマンふうの男性が立っていた。きょろきょろと部屋を見回し、途方に暮れている感じだ。もしかして、私同様、帰り方がわからなくなった人だろうか。 きっとそうだ。考えてみれば、自分の家に入るのにノックはいらない。 なら隠れていても仕方ない。私は男性の前に姿を現すことにした。 「あの」 ドアの陰から出る。男性がほっとしたように笑った。 「よかった。この家の方ですね?」

misato

11年前

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そんな安心した顔をされたら良心が痛むけれど…言うしかないのである。 「あの…すみません。私もさっきこの家に辿り着いたもので…家主ではないんです」 するとその男性は酷く落胆したようだったが、どこか諦め顔で笑った。 「そう、ですか。でも人に会えて良かったです」 私にはその言葉が妙に引っ掛かった。 「あの、それってどういう…。人なら他にもいますよね?」 「…もしかして、此処には来たばかりですか?」

haco

11年前

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男性も歩き疲れていたのか椅子に座りながらフゥと溜息をついた。 「此処はおそらく死後の世界なんだと思います」幾分遠慮がちに私にそう言いながらテーブルを見た。 「え、死後…?ってどういう…」男性に問いかけようとした瞬間、頭がズキンと痛みフラッシュバックの様にイメージが飛び込んできた。そうだ、家に帰る途中で私は──‼︎ ウウッ!と強烈な吐き気が襲い、私は赤い絨毯に膝をついた。 「まさか此処の食べ物を⁈」

11年前

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男性は膝をついて嘔吐しそうになった私の背中をさすりながら、「困ったものだ。しんでも欲には勝てないとは。人間はやはり愚かな生き物」と先程までの優しい声とは全く違う冷徹で地を這うような低い声で嘲笑うように言った。 顔を上げると景色は変わり、洋館ではなくただの川原になっていた。しかし、レコードの音楽は相変わらず流れている。 これは、”葬送曲”だ。どうして早く気がつかなかったんだろう。 「貴女は地獄行き」

10年前

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川の表面にピタリと靴底をつけた男。 「私は審判の神です。貴方の死因は交通事故でした。しかし問題はどこから帰る途中だったかです。おや、その顔はもうおわかりのようですね。先程の体験で人様の家の料理に手を出す場面がありましたが、それはつまり、色欲の罪の現れです」 そう、私は、友達の彼氏とホテルに…。 「自分の大切な人を食べられた被害者の怒りを貴方は想像できますか」 反省なさい。言うと男は消えた。

- 完 -