「また来ておくんなまし」 どんよりと雲が拡がる朝。 私は客を見送り、息を吐いた。 ここに来てから、どれくらい経ったのだろうか。 飛ぶように過ぎて行く月日を数えることなど、とうに辞めた。 うっかり故郷の言葉で話してぶたれたのも、今では遠い記憶だ。 私は雛菊。 この店で働く花魁だ。 まだ、恋は知らない。
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何故って私は男達の眼差しに嫌気が差しているから。あの嫌らしく薄気味悪い笑みにも吐き気がする。 あんな輩達との恋など興味すらなかった。 見初められ貰われていく仲間達を羨む気持ちなども一切ない。 しかし、私は出会ってしまった。 お慕いしてはいけないあのお方と。 あのお方は今晩来るはずではなかったご様子だった。 「私は帰らせて頂きます」 そう言ったあの人を私は無意識に呼び止めてしまっていた。
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「もし、旦那様」 するとその方は私を静かに見つめた。一対の深い黒曜の瞳が私を射抜く。 「生憎と、私はそういった事には興味がありませんので」 淡々とそう言って去ろうとする彼の手をするりと掴み、私はくすくすと笑ってみせた。 「つれないお人でありんすなぁ。折角いらしたのでありんしょう?さぁさ、一献」 盃を押しつけるように渡せば、心の臓が破れそうなほどに高鳴っていた。
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私の様子があまりに必死にみえたのか、その方は思い直したように座りなおすと、盃を手に取った。一息に飲み干すと、女も羨むような白い頬に朱が差した。 「明日、人を斬らねばなりません」 その方は誰にともなく呟いた。 「驚かないのですか?」 すっと目をあげると、今度ははっきりと私をみて尋ねた。 私は頭を振ると酒を注いだ。 「この世の名残に気勢を上げようと、同志に誘われたが、こういうところは性に合わない」
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「わかっておりんす。最初ッから、好かんような顔をしていんしたもの」 その方は、少しばかり口を歪めた。笑ったようにも苦しそうにも見え、私は何も言えなかった。 しなやかな腕が、くいっと盃を煽る。ふう、と息を吐くと、ぼんやりと座っている私を見兼ねてか、口を開いた。 「何です。ああも一生懸命引き留めておきながら、随分大人しい」 「ぬし様が、あんまり男前でござんすから」 「…喋ってくださいよ。調子が狂う」
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ばつが悪そうにうつむくと、その方は盃に目をやった。 「よう飲まれますな」 注ぐ側から、酒は喉を伝って消えていく。色づく肌は熱さえ帯びて、艶やかに照った。 居心地の悪さを隠そうとしているのが目に見えて、尚更おかしい。 明日の大事の話を尋ねようかと思った矢先、やっぱり酔いに潰れてしまった。 倒れ込む頭を抱いて、膝の上に乗せてやる。寝顔の愛おしさに、あれほど騒いだ胸も安らいだ。始めての心地だった。
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空が白み始めた頃、そのお方の瞼がゆっくりと開いた。 ああ…束の間の至福の刻はもうおしまい… できる限りの艶やかな笑みを浮かべていると「…名は何と言う…」ぼそりとそのお方が聞いてきた。 「雛菊でありんす」 「いや、そうではない。真の名は…」 そこまで言うとハッとした様に起き上がり、「すまぬ」と切なげに瞳を伏せた。 これから人を殺める男と ここから出られない花魁 何故出会ってしまったのだろう…
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「…春乃、でありんす。遠い昔の名。 雛菊は、春乃と申しんした」 女って、汚いものよ。図々しくて強かで、好いたひとの心に残る為にはなんだってするの。 「旦那様の心に残る事も此処から出ることも叶わぬ哀れな女でありんす」 ただ、貴方に拒絶されたらそれだけで壊れてしまうほど弱くて儚いの。 「旦那様、迷うのははばからしゅうありんす。わちきは運命は選ぶのはできんせん。 でも、旦那様、主は」 違うでしょう?
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「…一緒に来るか」 「え?」 「いや、独り言じゃ。気になさるな」 ボソリと呟いたその言葉は、確かに私の耳には届いた。 でも、その想いに応えてはいけない。 花魁に自由はない。それが世の中の決まり。 出口まで彼を送ると、通りは賑やかになりつつあった。 「楽しかった。また来ようと思う」 彼の優しい言葉と笑顔を眺めながら、私は深々と頭を下げた。 さよなら。また会いたいわ。 「ありがとうござりんした」
- 完 -