ペンキをブチまけたような「赤」だった。 僕が死んだとして、これだけ赤くできるだろうか。 奥へ奥へと進む度、「赤」が染みた靴下がびちゃりびちゃり、と粘着質な音をたてる。 独特の滑りと不快感に、入口で靴を脱いだことを後悔した。ここは鉄くさく、どこか脂くさい。 しかし僕は進まねばならない。 この「赤」をブチまけたのが僕の弟だからだ。弟の不始末は兄である僕がどうにかしなければ。 僕は決意したのだ。
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可哀想に弟はきっとお腹を空かせていたのだろう。 でも、奥座敷からまさか抜け出てしまったとは迂闊だった。 しかも運悪く、僕の職場の女の子が届け物など持って来るとは。余計な事をしてくれたものだ。 と、足の裏に、ぐにっとした感触があった。 僕はそっと、静かに足を上げる。 赤いびちゃびちゃの中に、ころんとした細く長い…ソーセージの様なモノがあった。 よく見ると見覚えのあるネイルがキラキラしていた。
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弟の食べ残しに違いない。僕は証拠隠滅のためにも、それを拾い上げ、自分の口に放り込んだ。鮮度の高い肉はやはり旨かった。 鮮紅の血溜まりの中、無惨に引き千切られた彼女の洋服と会社の書類が、乱雑に散らばっている。明日の商談に備え、彼女と二人、何日もかけて作成した書類だった。眩いばかりの彼女の笑顔が、ふと脳裏をよぎった。 もう二度と見ることはできない。 僕はさらに決心を深め、廊下の奥へと歩を進める。
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白い壁にもやはり「赤」が散っている。所々で小さめな手形も見える。 あぁ、弟はどこに行ったのだろうか。こんな所で手をついた様子を見ると、またお腹が空いてしまったのだろう。弟は一度食べると、直ぐに空腹を感じるようだ。 ため息をついて、いい加減に血で気持ち悪い靴下を脱ぐ。 素足に金属の感触。血溜まりから拾い上げたのは、見覚えのある指輪だ。 未亡人の家政婦も食べたか。この人は元々いざという時の餌役だった。
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弟のではなく、僕の餌だったが。 家政婦は細身の美人だった。噛み応えのありそうな引き締まった肢体が僕好みだったのだが、若く軟らかな歯触りを好む弟には固すぎた筈だ。選り好みする余裕も無い程お腹が空いていたのかと思うと、憐れにも思う。 奥座敷の見張り三人に僕の同僚、家政婦。 食べ散らかして家じゅう汚して、お行儀の悪い子だ。だから奥座敷に押し込められるんだよ。 赤の血溜りを踏み越え、僕はさらに進む。
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ぐりゅ… 嫌な音がして、まるで豆腐を潰したような感触が足に伝わった。 脳みそだ。弟は昔から脳みそが大の苦手なんだ。ほらこれも。一口かじっただけで捨ててる。馬鹿だな。脳みそが美味しいんじゃないか。 でも、一度だけ弟が脳みそを全て食べたことがある。それは俺が15の時。 父の命令だった。母を食えと。 母にべったりだった弟は心底嫌がってたなぁ。最終的に大粒の涙を流しながら食べた。
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母も、今の弟と同じようにおかしくなってしまったのだ。あの時もこんな風に家じゅうが「赤」に染まっていた。奥座敷から這い出て、家政婦と執事と新聞の集金に来た男の人をみんな平らげてしまっていた。 外に出る前に食い殺せ。それが父の命だったのだ。 低い唸り声が奥座敷の辺りから聞こえてくる。血の匂いが一層濃くなった。弟が近い。 空腹に狂うというのはどれほど辛いだろう。 待ってて、今僕がお前を食いに行くから。
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奥座敷は天井まで赤く酷い有り様だった。 弟が、餌の気に入らない部分を投げ散らかしたのだ。 敷かれた布団の上で弟は蹲り、耳障りな音をたてながら指の血を舐めとっている。 近づくが弟は僕のことを気に留めるそぶりもない。 僕は弟の側にしゃがみ、頬に触れた。 ひどく濡れている。 血と、涙で。 可哀想で見てられない。辛くて堪らない。 僕は弟の首筋に噛みついた。 口内に広がるその風味に、僕は、歓喜した。
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舌に確かに感じる感触。赤く濡れた弟の伸びた髪をかきあげ、片腕でも余る細い身体を抱きしめる。…逃げないように、慈しむ為に、どっちの理由も胸に刺さっていた。 ズル…りと吸い上げる甘い香り。涙を指先で拭うと、向き直り強くしがみついてきた。 同じ顔が柔らかく、ーー笑みを刻む。 それはこの忌まわしく、呪わしい全てから解放されるモノだけが見られるという永久の終焉。 母もこんな笑顔を父に魅せていた。
- 完 -